泡沫と人魚




もうどうしたって恋人になんてなれないのだからと、私は思った。

いっちゃんは、叶わない片思いをしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

2つ年上のいっちゃんはもう、ずっと叶わない片思いをしている。

その人は、いっちゃんの恋人だった人で、だったというのは今では恋人ではない、という意味。

3年前の夏、バイクの事故で、彼女は記憶を失った。

運転していたのはいっちゃんで、すべてが狂ってしまうには十分な暑さの夏だった。

今でも覚えている。むせ返るような濃い緑の匂い、青すぎる空、割れるほどに響く油蝉の声。

私は、まだちっぽけな高校生だった。

「かのちゃんの記憶が戻るんだったら、俺何でもするんだけどなぁ。」

いっちゃんはよく、そんなことを言った。

それが、償う振りでも、自己満足からの発言でもないことを、3年間側にいた私はちゃんとわかっている。ただ、分かっているだけで何も出来ない。

「お姉ちゃんはいっちゃんのことを嫌いになったわけじゃないよ。ただ、忘れてしまっただけで。」

何もかも、忘れてしまっただけで。

事故の原因になったいっちゃんは、我が家への出入りは禁止され、付き合うことも当然、許されなかった。

誰が悪いわけでもなかった。事故はいっちゃんのせいじゃなかったし、お姉ちゃんのせいでもなかった。夏のせいでも、暑さのせいでも、突然飛び出したこどものせいでもなくてただ、巡りあわせとか悪い運命とかがほんの少し作用して何かがずれてしまっただけのことだった。

ただ、そう思うには誰もが幼すぎただけのことで。

 

事故で記憶を失ったお姉ちゃんは、いっちゃんとのことは忘れて、新しい日々を、生きている。

少しずつ、私たちのことは思い出し、それまでもことも取り戻しつつあるのに、天罰のようにいっちゃんとのことは忘れたままだ。

そのことは、いっちゃんの胸を痛め続け、哀しませ続け、でもどこか安らかにさせてもいた。

「かのちゃんは優しい子だから、きっと俺のこと思い出したら、今までのことを辛く思うでしょう?かのちゃんは悪くないのに、ごめんっていっぱい言わせちゃうでしょう?だから今のままで、良い気がするんだ。俺も、何も罰がないままだと正直どうして良いかわからないし。」

ばかだなぁ、いっちゃん。

お姉ちゃんはそこまで考えてないかもしれないよ?いっちゃんほど、好きじゃないのかもしれないよ?

そんな残酷な台詞はとてもじゃないけど言えなかった。

いっちゃんは、お姉ちゃんがどう思っていようと、自分の意思をまっとうするだけだ。

それに、いっちゃんは知らないけど、お姉ちゃんは事故のあとから誰とも付き合っていない。

「誰かから好きだって言われても、その人を好きになる気がしないの。私にはずうっと好きだった人がいるような気がするの。変だよね?あき、心当たりないよね?」

お姉ちゃんは少しだけ遠くを見るような感じで、そんなことを言う。

ラプンツェルみたい。高い塔のてっぺんで、いつまでも来ない王子様を待っているお姉ちゃん。

お姉ちゃんにも神様の罰が当たったんだろうか?

いつまでも、忘れたままで、楽しい思い出だけを記憶の海に閉じ込めて、いつか世界が終わる時にそっと思い出すような、そんな恋を。

そんな哀しい結末が、神様の用意した罰なんだろうか。

そして、私に用意された罰はふたりの恋の行く末を見届けることなんだろうか。

 

 

「かのちゃんと付き合いだしたのはちょうど、クリスマスでさぁ、当時、他に付き合っていた人いたんだけど、何だかかのちゃんに押されちゃった。」

いっちゃんはそんなことを教えてくれた。

知っている。おねえちゃんがどんだけいっちゃんのことを好きだったか。

他に女がいるんだから諦めなよ、という私の忠告も無視して、料理とか普段まったくしないくせに、手作りでも食べ物ならまだ重くないよね?と言い、ガトー・ショコラを焼いていっちゃんに告白したお姉ちゃん。きっと玉砕だろうと思って用意していた赤ワインがお祝いの祝杯になって、未成年のくせに私たちはしこたま飲んだ。お母さんに怒られて、それでも幸福そうで、その日は確かいっしょにお風呂に入った。

「クリスマスプレゼントにガトー・ショコラにしちゃったから、バレンタインのネタがなくなっちゃったじゃんねぇ!」

お風呂に入りながら、そんなばかなことを言っていた。

知ってるよ、ぜんぶ。

何で、お姉ちゃん忘れちゃうんだよ。

哀しくて、哀しくて、誰を、何を恨めば良いのかわからない。

何もかもぜんぶ忘れちゃうのと、

何もかもぜんぶ覚えているのとどっちが辛いんだろう。

「いつか、ぜんぶうまくいく日がくると良いね。」

その台詞はわたしが言わなくちゃいけないのに、いっちゃんは言った。

赤いマフラーをぐるぐる首に巻いて、それはバレンタインにお姉ちゃんがプレゼントしたやつで、クリスマスに好きな人とふたりでいるのに、どうしたって哀しい。

「…うん。」

頷いたら涙が出た。

「何であきちゃんが泣くの、」

「だって、何だかみんな優しすぎて。」

泣きながらそう言うと手袋をしたまま、いっちゃんは手を握った。

「いっちゃん、」

「うん?」

「今だけお姉ちゃんの代わりになってあげるよ。お姉ちゃんだと思って良いよ。」

それが今の私の精一杯で、何の慰めにならなくても言わずにはいられなかった。

いっちゃんは少しだけびっくりしたような顔をして、やさしい顔で笑った。

「かのちゃんはかのちゃんで、あきちゃんはあきちゃんでしょう。」

「うん。」

「でも、ありがとう。」

本当に、いつか、すべてがうまくいく日がくるといい。その日が私の恋の命日でも、好きな人が笑ってくれるならそれでいい。

神様、サンタクロース様、

愛しい人にどうか、優しい眠りと幸福な日々を。

晴れた聖夜に私は祈った。