052 真昼の月

 
 
金色のお月様が空の端っこに引っかかっている夜。
それにぶら下がれるほど綺麗に弧を描いた下弦の月。
例えばあそこから世界を眺めたら、かなしいことも、どうしようもないことも、嬉しいことも、やさいいことも、ぜんぶぜんぶごちゃまぜで、混沌としたでも美しい、そんな光が広がっているんだろうか。
そんなことをぼんやり、ぼんやり思う、帰り道。
お向かいの家の犬がアオーンと吠えた。
右手の人差し指で月のラインをなぞる。
カタカナの「ノ」。
左手のジンとセロリががさごそ音をたてた。









ぼくの名前は瀬野晴加という。せのはるか。
じうきゅうさい。
出身地は新潟。米どころ。でもべつに米作農家の息子じゃありません。
父ちゃんと母ちゃんの反対を押し切って上京して2年目の夏。(さらに十代最後の夏)
でてきてわかった。
東京の夏は、
暑い。
それも、なんて言うのかな、からりとした暑さじゃなくて、こう、じわじわっとくるような感じ。
ちょうどプールの前の更衣室に似ている。正直言ってあんまし好きになれない。
見上げても白々しい、嘘のような空が広がって、ぼくは曖昧なきもちになる。
田舎のように四季がはっきりしてないから春が過ぎて何となく夏が来たよ、ってな感じ。
やる気あんのか、コラァ!と突っ込みたくなるほど、ぼんやりと曖昧に日々が流れる。
ただ、ただ、川が流れるように、
風が蒲公英の綿毛を運ぶように、
ぼくの日々も流れる。
 
おいおい、このままでいいのかよ!
何のために東京きたんだよ。
なんて、
弱気になりかけていたとき、
ぼくはそのひとに出会った。
街を渡る風が、何かいいものまで運んできそうな気がする季節だった。
名前も知らない、
甘いにおいの、白い花が咲いていた。
 
 
 
 
 
ところでぼくには夢があった。
上京する若者の8割がそうであるように、何もない田舎で、何かあるような都会に憧れて、
この街ならぼくの夢も何とか叶うかもしれない、なんて浅はかな考えを抱いて、
18の春、
ぼくは上京した。
ぼくの夢、それはお菓子職人になることだ。
パティシエまではいかなくてもいい。
小さな店を持って、街の人々の、
誕生日だとか、お祝い事だとか、そういう幸福な行事をそっと彩るようなお菓子が焼きたい。
そのために、日本の頂点であるこの街で、きちんとした勉強をしたい。
そう思った。
実のところを言うと、ぼくの実家は新潟でも割と有名な和菓子屋で、老舗まではいかなくともお祖父ちゃんの代からの歴史がある。それに何より味の評判も良いので遠方からわざわざ買いにくるお客さんがいたり、ガイドブックに載ってたり、繁盛している。
小さい頃から漠然とあぁ、この先ぼくはこの店をついで行くんだろうなぁ、なんて思っていた。
そのあらかじめ用意された進路になんの疑問もなく。
それが、まぁ多感な思春期を向かえ、反骨精神というか、親とか世の中とか決められたものとか何もかもをぶち壊してやりたくなる時期がぼくにも来たわけです。
その結果、上京。
反抗意識が芽生えたとはいっても所詮和か洋かのちがいなだけで、こういうところに血というものを感じたりもしたけれど、それでも、ぼくにとっては精一杯だった。
決められた道を外れて、自分で選んだ道を歩くこと。
それこそが、
今のぼくのすべて。
 
そんな訳で、住宅地の中にあって、そこに住むひとたちの生活に寄り添うようにあって、何かいいことがあったときのお祝いに立ち寄るような、この店に見習いとして働くようになった。
ぶっちゃけ、オーナーの味に惚れ込んで、ほとんど頼み込むようにして雇ってもらった。
ぼくはオーナーの物の考え方や、洋菓子に対する愛や、お店やお客さんに接する心意気がとても好きだ。いつか、一人前になったらオーナーみたいになりたいと、思う。
店で働いてる職人も、バイトの子も、パートのおばちゃんも、みんなみんなオーナーとこの店が好きだった。そういうのが伝わってくるような雰囲気だった。
自分のやっている仕事に対して責任があって、愛があって、それぞれにささやかな夢があって、
そういう店は必ず伝わる。
愛される。
 
 
話をもとに戻そう。
ぼくがそのひとに会ったのは正確には今年の5月だ。
そのひとはお客さんだった。
バフ色の犬を連れていた。
細くて小さくて、でも芯が強そうな瞳をしていた。
店にそのひとが入ってきたとき、店の空気が何か透明なものに変わったような気がした。
綺麗に澄んでいて、どこまでもどこまでもクリア。
それは、ぼくの故郷の空に似ていた。
たまたまバイトの子が急に休みになって、接客をしていたぼくはなぜかとても緊張した。
小さな声で「いらっしゃいませ」というと、彼女はにっこりと微笑んで、
「これください。」
と言った。
それはオペラという名のチョコレートケーキで、フランスのオペラ座からその名を取った。どこか気品の漂う洋菓子で、ちなみにオーナーの自信作のひとつだ。
「あ、はい。えっと、おいくつですか?」
笑った顔が花のようでドキドキしているぼくに、彼女は、
「2つください。」
そう言ってもういちど笑った。
ぼくはオペラを2つとって、丁寧に丁寧に包んだ。その間彼女がぼくの指先をじっと見つめていてドキドキした。
「お待たせしました。」
そう言って渡すと、彼女は手渡された白い箱に愛しそうな眼差しを向けると、
「ありがとう。」
と言った。鈴が震えるような、何か綺麗なものを含んでいるようなその声の響きは、ぼくを幸福にさせた。いいことをしたような気分になった。
「また来てください!」
満面の笑みで、今度は元気な声で、そう言う。
「また、来ます。」
くすくす笑いながら彼女は言った。
それがぼくと、彼女との出会いだった。
 
 
恋って不思議だ。
彼女のことを考えると胸のなかにひっそりといい匂いの花が咲いたようなきもちになる。
ぼんやりした東京の空さえも良く思えてくる。
ぼくの、彼女に対する思いは、
恋のはじまりのかわいい部分とか、しあわせなきもちとか、新しいことを知る喜びだとか、そういうものを全部煮詰めて甘いシロップにしたような感じ。
心のキッチンにそれをしまって、いつでも取り出してはその甘さを楽しむ事ができる。
そんなものだった。
 
 
「ハル、最近調子良さそうだな?」
営業時間が終わって新作のお菓子の試作を作っていると、着替え終えたオーナーがぼくに声をかけた。
「やっぱり?わかります?」
ホイッパーを片手に顔がにやにやしてしまう。
「うん。つい1ヶ月前くらいまでは煮え切らない顔してたけど、最近良い顔になった。」
そっかー、わかるのかー。やっぱな。なんて妙に納得して、
「最近やる気でるんッスよ。東京に来た頃のようにがんばろう、って思えたり。」
高校生のようにガッツポーズをして、ぼくはそう言った。
オーナーは笑って、「ほどほどにしろよ。」と言って帰っていった。
 
彼女はあれから週に一回、必ず買い物に来るようになった。
オペラ、レアチーズ、クリーム・ブリュレ、ガトー・ショコラ、紅茶のシフォン、
買う品物はそのつど違ったりしたけれど、必ず2つ、買っていった。
もうひとつのケーキを誰が食べるのか気にならなくはなかったけど、
真剣にケーキを選ぶ彼女の横顔を見ていると、いつも甘い気持ちになった。
水曜日。バフ色の犬を連れて、必ずぼくが接客をしている(暇な)時間帯に。
それが1月も続くと、期待もしちゃうだろう?ぼくが夢見がちだからとかじゃないと思う。
「名前を聞いてもいいですか?」
はじめて出会ってから3回目(その日は木苺のタルトをいつものように2つ買った)思い切ってぼくは聞いた。
「わたしの?それともこのこの?」
そう言って犬を指して、笑う。
「りょうほう。」
ぼくも笑う。たとえば空気が色付きだったとしたら、きらきらと生まれたばかりの星のような輝きを持っただろう。そんな瞬間だった。
「わたしはゆきの。このこはばにら。」
「ぼくははるか。瀬野晴加。」
「はるか。じゃぁ、はるくんだね。」
ゆきのさんはそう言って、よろしく。と右手を差し出した。
「うん、よろしく。」
ぼくも言って彼女の右手を握る。
ひんやりと冷たい手だった。
ばにらが硝子玉のような目でぼくらを見上げていた。
 
 
恋をすると世界中がやさしい色にみえる。
親切にしてもらったり、いいことを言われたりすると、涙がでそうになる。
多分、ぼくの感受性のすべてがそういうあたたかで綺麗なものを受信しやすくなっていて、
たとえば見るからに今時の若者がお祖母さんに席を譲っていたり、
まだ小さなあかちゃんが精一杯空に向かって手を広げていたり、
近所の魚屋のおじちゃんが残った魚を野良猫にあげていたり、
そんな場面ばかりをキャッチしてはじんとしていた。
もちろん世の中はそんなシーンばかりじゃないと知っていたし、これが恋によってもたらされる相乗効果だとはわかっていたつもりだけど、
それでもぼくは幸福だった。いいきもちが常に続いた。
そういう種類の恋だった。
 
 
あなたのために、がんばれる。
あなたがいるから、この街も好きになれる。
あなたが笑ってくれるなら、ぼくは―
 
 
なぜだろう。ゆきのさんはいつも笑っていたのに、いつもどこか淋しそうなトーンが漂っていた。
にこにこと笑う、瞳の奥にぼくの知らない静かな悲しみが広がっているような気がした。
ゆきのさんといると、いつも深い深い海の底にいるような、
音の無い一面の雪景色の中にいるような、そんな気になった。
神聖で侵しがたい、綺麗で、多分綺麗過ぎる景色。
彼女といるとき、ぼくはしばしばそういう景色を見た。
そんなときいつも、雨の日にひとりぼっちで留守番をしているこどものような、そんな心細い気持ちになった。
それは、ゆきのさんの心の景色だったんだろうか。
 
 
「店の外で会いませんか?」
水曜日。いつものようにばにらと共に店に来たゆきのさんにぼくはそう言った。
ゆきのさんは一瞬、びっくりしたように瞳を開いて、それからいつものように静かに目を伏せて言った。
「ここであなたと話すだけでじゅうぶん。」
「じゅうぶんすぎるくらいだわ。」
ひっそりと。
はじめて会ったときから気にしないようにしていた左手の銀の指輪が光を放った。
ぼくは途方もなく悲しくなった。
「でも、」
繋がる言葉が出てこなかった。
ただ自分の指先だけを見つめて丁寧にマロングラッセを包んだ。
丁寧に、
丁寧に、
時間を惜しむように。
「あのね、」
「わたしほんとうは甘いものなんてちっとも好きじゃないの。」
同じようにぼくの指先を見つめてゆきのさんはそう言った。
「え?」
ぼくは顔を上げる。
「可笑しいでしょう。ほんとよ。ちっとも好きじゃないの。」
多分間抜けな顔をしていたんだと思う。ゆきのさんは可笑しそうに笑った。
「でもね、わたしの夫はね、男のくせに甘いものが大好きで甘いものを食べるとしあわせなきもちになるからって、好きになれって言うの。俺のことを好きなら同時に甘いものも好きになれって。変なひとでしょう?付き合い始めてから結婚するまでデートのたびに甘いものを食べたわ。正直吐き気がするほど嫌だったけど彼があんまり嬉しそうに笑うから断れなくて、複雑だったな。」
「だから大嫌いだけど大好きなの。甘いものはわたしにとって幸福の象徴なの。」
その話を聞いて、ぼくの感受性は最高潮に達してしまった。
いい話なのに悲しくて涙が出た。
やさしすぎて胸が痛かった。
こどもみたいに泣くぼくの頭をやさしく撫でて、ゆきのさんは「ありがとう」と言った。
「ありがとう、はるくん。」
「やさしいね、ありがとう。」
何度もくりかえし、くりかえし。
 
 
 
毎日仕事が終わると、オーナーはその日売れ残ったケーキを持って病院へ行く。
毎日、
毎日
欠かすことなく。
水曜日だけが唯一オーナーの公休日で、「何してるんですか?」と聞くと、
「洗濯とか、そうじとか、まぁその他もろもろだよ。」と笑って言った。
でもぼくはオーナーがほんとうは神社や、教会や、とにかく祈りを捧げるような場所に行っていることを知っていた。ぼくだけじゃない。店のみんなが知っていた。
 
 
 
その日、7月も半ばを過ぎたある晴れた夏の日。
オーナーの奥さんだというひとのお葬式にぼくは来ていた。
白血病だったそうだ。
その日の空は新潟の青い空に似て、綺麗だった。
ぼくに気付くとオーナーは静かに笑って、
「悪かったな。わざわざ。」
と言った。ぼくが首を振るとぼくの頭をくしゃくしゃに撫でて、
「何でお前が泣くんだよ。」
と言った。
ぼくは泣いていた。
かなしくて、とか、つらくて、とかそういう類の涙じゃなかった。
ただ、このひとたちのかつて幸福だった日々を思って、ぼくは泣いた。
「覚悟はしていてもきついな。」
大きな手のひらで目蓋を覆って、オーナーは空を仰いだ。
ぼくは黙ったまま、きのう完成したばかりの新作のケーキの入った白い箱をオーナーに手渡した。
「何だ?」
「ケーキです。」
「見りゃわかるって。じゃなくて何でこれを?」
「新作です。フルーツをたくさん使ってできるだけ砂糖の甘さは抑えて、作りました。」
オーナーはその大きな手で白くてちいさな箱を受け取った。
その形が教会に似ているなとぼんやり思った。
「約束したんです。」
いつか、ぼくが一人前のお菓子職人になったらあなたのために甘くないケーキを焼こう。
食べると切なくて、悲しくて、やさしかった思い出だけがよみがえってくるような、そんな味。
オーナーは奥さんの墓前にそれを供えて、
「ありがとう。」
と言った。
オーナーの言葉は満月の夜の海のように静かで、綺麗で、淋しくて、
彼女の持つ言葉と同じ響きを持った。
オーナーと、ぼくと彼女とバフ色の犬。
「ばにら、」
名前を呼ぶと夜空のような瞳でぼくをみた。
 
 
世界は広くて、きれいなことも、やさしいことも、殺人も、戦争も、
同じ瞬間に存在していて、
だからこういう事も、当たり前のように起きてしまうんだろうと、思った。
神様が見せた悲しくやさし幻のような日々。
通り過ぎるとまばたきをしただけのような、そんな夏の谷間。
もうすこしだけ、この街でがんばろう。
そう思って息を吸い込む。
 
そんなぼくの
19歳の、
恋のはなし。











後書

この話を書くときに思い浮かべていたものがあります。それはカトレアという名の白い蘭の花です。
お話にのどこにも出てきませんが、この話がその花のようにいい匂いのものになるといいなぁと思い、書きました。不思議なことも当たり前のように起きてしまう、それぞれの恋がみた夏の夢のような話です。

2003/08/02
そらとゆき





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