036 きょうだい
ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉に止まれ。
菜の葉に飽いたら桜に止まれ。
さくらにとまれ。
花から花へ蝶々は飛び回るものらしい。やっぱり。
綺麗な蝶々
がちゃり。
重たげな音がして玄関の扉が開く。午前0時、もとい深夜24時。とにかく、ぜったいにこれは黒だな、と思う。アタシは音を立てないようにそうっと階段を下りる。闇に浮かぶ深夜のキッチン。午前様帰宅の兄はそこでコーヒーを淹れていた。
「アタシにも頂戴。」
背後から声をかけると肩がびくっとなる。おもしれー。
「っだよ、果歩。脅かすんじゃねーよ。」
綺麗な蜜色の髪。絶対アタシのトリートメントを使っているに違いない。
「最近遅いじゃん、帰ってくんの。」
ぷーさんの絵の付いたカップを戸棚から出して兄に渡す。淹れてよ、という意味を込めて。
「あ〜。うっせ!お子様はさっさと寝てろよ。大人にはいろいろとあんだよ。」
悪態をつきながらもアタシは兄がちゃんとアタシの分まで淹れてくれることを知っている。
シュン、という音がしてお湯が沸く。キッチンにはコーヒーの香ばしい香りが漂いだす。アタシは兄の淹れるコーヒーが好きだ。そして真夜中のコーヒーは何だか懐かしい気持ちになる。心細いような、胃がきゅうっと縮まるような。
「お兄ちゃん、」
「何、」
「今日エッチしてきた?」
ぶっ、と吹き出してコーヒーにむせる兄。真剣な顔の妹。ばかみたいな絵面。
「ばっっかじゃねぇの。お前。聞くか?そーゆーことを。ふつう。」
「だって。」
確かめたかったんだもん。
「例えしてきてても言わねーよ。ばか。」
「狡―い!!」
「口尖らすなチュウすっぞ。」
別に、されてもいいけどね。っていうかする気もないくせに脅しで言ってるってわかってるし。アタシが黙っていると兄は「マセガキが、」とかぶつぶつ言っていた。
コーヒーの香りが濃い、台所。
だって。
だってこういう時のお兄ちゃんからは蜜のような甘い香りがするんだもん。
多分、それは女の香り。
艶やかで妖艶な女の香り。
例えその相手が一昨日とは別人でも、女の匂いは変わらない。
ねっとりと絡みつくような艶かしい香り。
ほとんど憎悪に近い感情でアタシはその匂いを嫌悪していた。
うえ。吐き気がする。
地獄に堕ちろ。
蝶々は菜の花でも、桜でも物足りないらしい。
別に、今の境遇を呪ったことは無い。今のままでも十分すぎるくらいだし。
「もしも」を考えることは無意味だと思う。
でも、ときどき夢のように思う。
「もしも、」
もしも、
アタシ達に血のつながりが無かったら。
それでもきっと兄はアタシを選んだりはしないだろうけど。
只、何となく。
いつからだろう。兄が遠く手の届かないところに行ってしまったのは。
アタシは兄がいないと何もできない子だった。
そういうアタシのことをうっとおしがりながらも兄は、最後にはあたしを選んでくれた。
果歩は俺がいないと泣くから、
そう言って友達との約束を何度も断っていた。
いつから?
お兄ちゃんの一番大事なものがアタシじゃなくなったのはいつの日から?
気が付くと花から花へ、蜜色の蝶々は飛び回る。
ひらり、ひらりと夢の残像のように、アタシの前をかすめながら。
アタシは手を伸ばして其れを捕まえようと必死だけど、蝶々はそんなアタシには構う事無く、
花から花へ。
「くっそ。あ〜、気分悪ぃ。」
珍しく夕飯に間に合うように帰ってきたと思うと兄はめちゃくちゃ機嫌が悪かった。わざわざ音を立てて鞄を置き、機嫌の悪さをアピールしている。
「おかえり。ごはん食べる?」
一応カワイイ妹スマイルを浮かべて兄に聞く。うっとしそうに見上げる兄。超!イラついているときの眼だ。怖。
「いらね。っていうか、食う気しねーし。」
「あっそう。今日カツカレーなのに。」
呟くように言うと、ぎろり、と音がするほどアタシを睨んで、
「超ムカつく。いつからこんなにせーかく悪くなったんだ、お前。」
と吐いた。
「今頃気付いたの?」
そして再び、超、カワイイ妹スマイル。
「カツ多めにいれてもらおーね。」
機嫌劣悪の蝶々はやっと口の端だけで笑った。
機嫌の悪い原因は多分、きっと女だと思う。其れはもう確信に近い。でも、アタシは聞かない。分かっていても本人の口から聞くのと聞かないのでは大違いだからだ。
アタシは妹。
昔も今もこれからも。たとえお兄ちゃんが結婚したりしたとしても、其れだけは変わらない事実。
血のつながった兄弟という設定でこの世界に生きているのに何の因果で実の兄に恋しなければならなかったのか。こんなオプションはキャンセルだ。
胸が痛くてしょうがない。
夕食後、部屋でくつろいでいると兄が入ってきた。
「かーほーちゃん。」
ちゃん付けなんかして気色悪い。
「きしょっ。何?」
アタシは読んでいた雑誌から目を上げて思ったまんまを口にする。さすがに少しむっとした顔をした兄が続けて言う。
「今暇?」
「見てわからない?優雅に読書中でゴザイマス。」
ばっとアタシから雑誌を取り上げて、
「暇になったよね?果歩ちゃん。」
あぁ、悪魔のような微笑み。
久しぶりに入る兄の部屋は何となく印象が変わっていた。何ていうか、男の部屋になっていた。
「何じろじろ見てんだよ。」
アタシの視線に気付いてかアタシを小突きつつ兄は言う。
「いやぁ、エッチな本とかあるかなーと思って。」
「ほんっっとお前ばか。そーゆーのは見えるとこに置かないの。」
そんなもんか。
「それより、お前の使命を全うしろよ。」
そう言って兄は脱色剤をアタシに投げつける。アタシはやればキハチのソフトを奢るという兄の言葉に騙されて兄の脱色に付き合うことになった。そういえば根元が黒くなりかかっていたような。兄はおしゃれさんだからそれだけでも気にするんだろうな。もとい。兄の女が気にするんだろうな。
綺麗な蜜色の髪に液を垂らす。何だか静かな気持ちになる。兄がこの色にしたのはあたしがいくつのときだったかな。もとは綺麗な黒髪だったのに。アゲハ蝶のようだと思っていたのに。
「ねー、お兄ちゃん。」
「あー?」
「何で金色にしちゃったの?」
髪。何で金色にしちゃったの?
兄の髪は金に近い柔らかな蜜色で、其れは兄にとてもよく似合っているのだけど其の髪の色を見たとき、アタシは何だかとても悲しかったのを覚えている。蜜色の髪の兄はアタシの知らない別人のようだった。兄に良く似ているべつの人のようだった。
「お前には一生わかんない。」
嘲るように兄は言った。
「アタシ、お兄ちゃんの黒い髪も好きだったのに。」
アゲハ蝶みたいな黒。アタシの髪も夜のように黒く、小さい頃は兄弟揃って綺麗な髪ね、とよく褒められた。兄とお揃いのような気がして、アタシは嬉しかったのに。
オニイチャントオンナジ。
嬉しかったのに。
「アタシも金色にしようかな。」
何となくのつもりで言っただけなのに兄は物凄い勢いで振り向いて
「死んでもすんな。したらコロス。」
と言ってあたしを睨んだ。其の気迫が怖くて、そして何よりも悲しくて、
「何でよ〜」
とアタシは泣いた。
「泣くなよ。」
「何でお兄ちゃんはアタシを置いてこうとするのー」
アタシはいつまでもお兄ちゃんといたいのに。
一緒にいたいのに。
ひとりでどんどん先に進んで。キスもエッチも知らない女といっぱいやりやがって、
アタシがどんな気持ちで言ったか知らないくせに。
一度泣き始めると歯止めが利かなくなっていつの間にかうえっという嗚咽つきの泣きに入っていた。
「泣くなって、」
アタシの目を覗き込むように見てあやすように兄が言う。あぁ、小さい頃と同じだ。心配そうに見つめる兄の目。大きな暖かい手。
「泣き止まないー。」
びゃあびゃあ泣きながらアタシは言う。
「あほ。泣き止まないとチュウすっぞ。」
いつもの台詞。できないくせに。
「してよ。」
ひっくという嗚咽に混じりながらアタシの意思は強く響いた。
「してよ。キス。どうせできないんでしょ。」
傷ついたように歯向かうアタシ。其のアタシの生意気な唇を、兄は優しく塞いだ。
とろとろと蜜色の液がアタシに零れ落ちてくるかのような、錯覚。
泣くのを忘れた。
暫くして兄は体を離し、再びアタシに背を向けた。
「続き。」
「は?」
「泣き止んだろ。続き、やれって。」
そして脱色剤に備え付けられていたコームをアタシに手渡す。
綺麗綺麗な色の金。
「お兄ちゃん、」
アタシはまだ少し涙声で言う。
「お兄ちゃんが髪の毛金色にしてきた時、」
思い出した。あの日は、アタシが初めて男の子を家に連れてきた日。初夏の土曜日、昼下がりの眠たげな時間。アタシと其の男の子は社会科の同じグループで、今度行く社会科見学の自由行動時間についての打ち合わせをしていたんだ。兄は縁側の方から回って家に入ってきた。庭の向日葵の金とおんなじ色の髪をして。
「あの日、お兄ちゃんに似た別の人が帰ってきたのかと思った。」
とても良く似た、でも兄じゃない人。
びっくりして思わずどなたですか?って聞いた。
向日葵とおんなじ色した髪の少年は、
「お前の兄ちゃんに良く似た人。」
って答えたんだ。
アタシの回想録に兄は興味なさそうに「あっそ。」と言っていた。
「もしも」の可能性を考えるのは無意味だと知っているけど、
もしも、
アタシ達に血のつながりが無くて、
お互いに別々の人として出会っていたら、
アタシ達は恋に堕ちたかもしれない。
わかんないけどね。
ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉に止まれ。
菜の葉に飽いたら桜に止まれ。
桜にも飽いたら戻っておいで。
そうして蜜色の綺麗な蝶々は今日も、
花から花へ。
後書。
蝶々は妖しい。妖しくて美しいものには毒がありそうな気がします。
私の中でイメージは男の子でした。
何か、蜜がありそうな気がする。