077 欠けた左手





風が、吹いていた。
猫じゃらしを揺らし、ぼうぼうに生えている雑草を撫で、
風が。
私は何故か、とても哀しい気持ちになって、
空を仰ぎ見る。
夏は嫌いだ。
過ぎ去ったすべてが幻想のようで、でもとても強くはっきりと、その影だけが残る。
何かに似ている。
強くて、鮮やかで、秀麗で、
それでいて掴むとするする溶けていってしまうような、
あぁ、そうだ。
凛に似ているんだ。
そう思ったらまたすこし、泣きたくなった。
隣のの朔手のひらを重ねる。予想に反して朔の手は温かかった。
朔は、一瞬だけ私を見て、そしてその薄く紅い唇を寄せるだけの、簡単で短い、キスをした。
朔の綺麗な黒髪が光を浴びていた。
いいにおいがした。
この感覚を知っていた。
「朔、全然似てないよ?」
唇が離れると私は言った。
朔はキスしたことなんか忘れたという風に涼しい顔で、
「知ってる」
と言った。
横顔が、ぞっとするほど凛に似ていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西暦二〇〇四年八月。
「菅原、今なに読んでるの」
隣に座った朔が本から目を離さないまま言う。
「夏目漱石、こころ。」
「課題図書じゃない」
「そうだよ、文句ある?そういう朔は?」
「アインシュタインの相対性理論。」
「嘘?!」
「嘘。本当は東野圭吾。」
朔は平気で嘘をつく。ちっとも悪びれない。
試しに軽く睨んでみたけれど、涼しい横顔は視線を合わせることもしない。
あきらめて再び本に視線を落とす。そうするとしばらくの間、涼しい顔で笑いを堪えていた朔も再び意識を本に戻した。
朔とは三年で同じクラスになって知り合った。もっとも最初のうち私は彼の存在すら知らなかったのだけど。
図書館でやたら顔合わすやつがいるなーと思っていると向こうから話しかけてきた。
しかも最初のひとことが「その本おもしろくないからやめた方がいいよ」だった。
前々から読んでみたい本だったので、
「おもしろいかおもしろくないかは私が読んでから決めるよ。ていうかあんた誰?」と言い返した。
朔は声をあげて笑い、「同じクラスの皆川朔。名前くらい覚えたら?」と言った。
今でこそこんな風に夏休みの一日を、申し合わせて区立図書館なんかに来るようになったけど、
はっきり言って朔の第一印象は最悪だった。(後日この話をすると朔は「光栄だね」と言った)
「皆川朔ね、覚えた。ご親切にどうも。それじゃあさようなら」
朔はさっさとその場から立ち去ろうとする私の腕に、自分の持っていた文庫本を乗せた。
「おもしろいから貸してあげる。読み終わったら感想聞かせて。」
本は星新一だった。つき返そうと思う間もなく、彼は去っていってしまった。
ミナガワサク。
私は朔の名前を覚えてしまった。
私に関わってくる人間なんてめずらしい。朔は真冬の空みたいな匂いをしていた。何となく。
 
それから私たちは少しずつ仲良くなっていった。
「仲良く」という言葉はやや語弊があるかもしれない。
本やCDを貸し借りすることはあったが一日の中でお互いまったく接触を持たなかった日もあった。
それでも朔が何らかの理由で学校を休んだりすると(実際、朔はよく学校を休んだ)私の心は静かな雨の日の午後のようにすうすうした。
朔は一緒にいても気にならない。でもひとりきりという感じがしない。
それは朔は距離の取り方が上手いからだと思う。
朔は、私が2〜3日学校を休んでも、2時間目の休み時間には保健室にいったとしてもあまり気にしないみたいだった。
それでも休んでいた分のノートのコピーが引き出しに入っていたりしたし、(あとでコピー代は請求される)
それに、他の子のような目で私を見たりは絶対と言っていいほどしなかった。
 
その日、私は、3時間目の数学の時間を保健室で過ごしていた。(私たちの学校は進学校で、夏休みといえど補習がある。ばかばかしいことに)
生徒たちのざわめきが遠く聞こえる。悪いことをしているかのように微かに罪悪感で胸が痛んだ。
目を瞑ると目蓋の上に青い空が踊っているように浮かんだ。今は夏なのだ。時々そういうことを忘れそうになる。
ひとしきり眠って目を開けると、横に朔がいた。
「おはよう」と言うので同じ言葉を返す。ばかみたい。もうお昼近いというのに。
どうやらまだ3時間目の最中らしく、時計は11時半過ぎを指していた。
保健の先生は留守のようだった。
「この部屋酸素が多いね」
「・・・そう?一階にあるからかな。光も風も入るしね」
「それに生徒もいないし」
先生もいないし、と心の中で付け足した。
「世界に俺と菅原のふたりきり」
朔の目はブラックホールだ。じっとみてると吸い寄せられる。吸い込まれる。
「顔、赤いよ。緊張したの?」
くつくつと可笑しそうに笑う朔をみて、ようやく今のが冗談だということに気が付いた。
「してないわよ」
思わず大きな声が出てしまったけど、この場合逆上すればするほど逆効果だと知っていた。
朔はひとしきり笑い、
笑い終わってそして、
「ごめん、菅原」
と言った。急にまじめな顔になって。
「すぐに花、捨てられなくて」
なに言ってるんだ、朔。
花は綺麗だったよ。
花に罪はないよ。黄色と、白で、そこだけがしんとしているようで、
綺麗だったよ。
ごめん、なんて、言わなくていい。
言葉にしてそういうと、朔はすこしだけ微笑んだ。
「菅原、今日放課後ひま?」
「何で?」
「会わせたいひとがいる」
「会わせたいひと?」
オウム返しで返すと朔は神妙な顔で頷いた。
 
 
 
 
 
 
 
「あ、アリス。」
「どこ、」
「ほら、あそこ。」
風に揺れる草むらの中に、あのビロードのような黒を見た気がした。
けれども、指差した先には何もなくて、ただ、猫じゃらしが稲穂のように揺れているだけだった。
でも、確かに見た気がした。
アリス、
名前を付けたのは凛だった。
「この子はアリス。そしてあっちが棗(なつめ)。あそこの三毛は九龍(クーロン)。まだまだ他にもいるよ。みんなそれぞれ来る時間が違うから。」
アリスという名の黒猫は凛に懐いているようだった。その証拠に私が触ると鋭い爪でひっかかれた。
「痛っ。何よ、この子。」
「あはは。アリスは嫉妬深いからなぁ。大丈夫。慣れたら触らせてもらえるよ。」
アリスは凛からの恩寵を一身に受けて、海の底のような眼で私を睨んだ。
まるで、凛は私のものだ、と言っているような眼だった。
アリスが苦手だった。触らせてもくれないし、いつも凛のそばにいた。
だからだろうか。
アリスに会いたかった。
私たちの心の中にある絶対的な不在。埋め合わせをせず不在のまま、彼女もまた生きているのかもしれないと思うと、私たちはこの広い世界で唯一分かり合える同士のような気がした。
 
 
 
 
 
保健室で眠っている私を待って、補習後彼が連れて行ってくれたのは都内からそう遠くない場所にある廃屋だった。
「会わせたいひとは此処にいるの?まさか幽霊か何か?」
茶化して言うと、朔は冷ややかに「ちがう」と言った。
朔はこういう冗談には乗ってこない。
きょろきょろとあたりを見回しているとその間に朔はずんずん中に入っていってしまった。
「ちょっと、朔」
「大丈夫。ここ一応、俺の家の土地だから」
知らなかった。朔の家って割と金持ちなんだ。不法侵入で訴えられる可能性はなくなったとしても、この家、ほんとうに人が住んでいるんだろうか。かろうじて住めたとしてもぎりぎりのラインに変わりはない。第一、怖そうだ。私は改めてその屋敷を眺める。
ペンキがはげた白木造りの洋館。いたるところに蔦が撒きついている。けっこう広い庭は雑草だらけで、膝の辺りまで伸びていた。坪数と、建物の造りからみて、かつては立派な洋館だったんじゃないだろうか。今は見る影もないけど。
私が冷静に屋敷の鑑定をしている間、朔はどんどんドアを叩いて、来訪を告げていた。
「おーい、凛。いるんでしょ。」
どんどんドアを叩き続けるが中から人が出てくる気配がしない。
「出掛けたかな。」
とりあえず叩くのをやめて、朔がそう呟いていると、
「あれー?サク。どうしたのー?」
私たちの頭上で声がした。
「凛、そこにいたんだ」
朔が先ほどから呼んでいる、どうやらこの家の主らしい人物は屋根の上からにこにこと手を振っていた。
「うん。日光浴。ついでに布団も干してた。サクもあがっておいでよ」
「いい。それより自分が降りてきたら?」
「そう?気持ちいいのに…」
凛と呼ばれたその少年はしぶしぶ腰を上げる。その拍子に、彼の重みで押さえていた敷布団がずるずる下がった。
「わ、凛、落ちる」
「あはは!そのまま受け取って!」
どさ、という音とともに敷布団が落ち(朔はそれを受け止めようとしなかった)続いて少年も飛び降りてきた。
「サク、ひどい。取ってくれたっていいでしょ。」
少年はひとしきり怒っていたが、朔の隣の私に気が付いたみたいで黙る。
「サクのガールフレンド?」
「ちがう。クラスメイト」
「ふーん。クラスメイトかぁ」
少年はそう言ってくすくす笑った。
うっそうと茂った草木が私たちを取り囲み、濃い緑の匂いがした。
世界の音が、うんと遠くに感じた。そこだけ、ちがう世界のように、周囲から隔絶されて、なぜか守られているような気がした。
私は自己紹介をして、彼が朔の従兄弟で凛という名だということを知った。
彼が、夏の間だけここに住んでいるということも。
 
 
 
 
 
 
 
「驚いた?」
洋館から帰る途中、朔はそんなことを言った。
「うん。驚いた」
「それは俺の韓国人の従兄弟のこと?それともあの洋館のこと?」
「朔んちが意外とお金持ちだったこと」
「あ、そう。嫁にでも来る?」
「こない。」
朔はもういちど「そう」と言い、しばらく黙った。
日が長くなった。もう夜の7時だというのに、朔の横顔も、その先のたばこ屋の看板も、道なりのポストもよく見える。はじまりと逆の順番で暮れていく空。重なっていく蒼、紺。
「菅原には逃げる場所が必要だと思う」
ふいに朔は言った。
私は今日、学校でみた花のことを考えていた。黄色と白。そのすっきりした佇まい。
「学校のこと?」
私が聞くと、朔は静かに首を振り、
「いろんなこと」
と言った。
「いろんなことから、離れて、すこしだけ休んだ方がいいんだ。戦っていくには逃げる場所も必要だと思う」
「なにそれ。はっきり言って」
「学校のこととか、家のこととか、そういうの考えないような場所があった方がいいってこと。本だけじゃなくて」
朔はまっすぐ前を見て言った。
夕日がその目に映っていた。
 
 
 
 
 
学校とか、
家とか、
学校とか、
家とか、
朔の言葉がぐるぐるまわる。
菊は綺麗だった。
ただ、私の机にそれがのっているのを見たとき、吐き気がした。
黄色と白と、無数の花びらと。
花びらにクラスメイトの笑う声がかかった。
きもちわるい。気持ち悪くて、吐き気がする。
私はそこから動けない。
 
 
 
 
 
その古い洋館へはそれからもたびたび遊びに行った。
大抵は朔と一緒に。そのうち、ひとりで。
最初から凛は私のことを、ミオと呼んだ。
「スガワラさんって呼んでてもそのうちミオになっちゃうと思うよ。」
さらりと凛は言い、それならと、私も彼のことを凛と呼ばせてもらうことにした。
それにしても、凛は私のことをその辺の猫や何かといっしょだと思ってたんじゃないだろうか。
実際、その廃屋(人が住んでいるので廃屋とは言わないか)には入れ替わり立ち代り、無数の猫が訪れた。
大体が野良猫で、中には飼い猫や迷い猫もいた。
どの猫にも凛は適当に名前を付けていた。
私もそれといっしょだったんじゃないかと思う。
「ミオ」という名前を与えられた、凛の住む、隠れ家のような家に迷い込んだ猫。
洋館は古ぼけていて、雨漏りはするわ、床は抜けるわで、決していい環境とは言えないのに、私はそこが好きになった。
そこに流れる時間、空気の色、世界、どこか退廃的なムードが漂う、でも悪い感じじゃないような。
あちこち穴が開いているので風が良く通る。それが良かったのかもしれない。
そこで凛と、猫とただ流れるように時間を過ごしていると、私は「澪」から「ミオ」になることができた。
「ミオ」のときの私は頭が悪くなったようになにも考えなかった。
でもそういう状態がむしろ心地よかった。心を使わず、物事を最小限に考えて、何もかもを流れに任せて。
 
 
 
 
 
 
 
その日、私は、補習を半日だけ受けて昼間から凛の家を訪れていた。
やたら暑い日で、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。
凛はいろんなところに出かけては変なものを拾ってくるので、すでに家の中ががらくたでいっぱいになっている。
でも使えるものがほとんどだったのでそのがらくたのようなものを修理して一応使える形にしていた。
一日の補習を終えたら朔が合流して、きのう凛が拾ったホットプレートで焼肉をする予定だった。
私たちは後もうちょっと休んだら買い物に行こうと言い合いながらだらだらしていた。
大きいたらいに水を張って、その中に足をつける。ぶーんという鈍い音をたてて冷蔵庫が唸った。
薄暗いキッチンのテーブルに向かい合わせに座って、私は読みかけの文庫本を読み、凛はトランプでピラミッドを作っていた。
テーブルの上ではアリスが伸びている。麦茶のグラスが汗をかいて、水滴がわっかの形の作った。
「はじめて会ったときさー、」
凛がスペードの10をつまみつつ言う。
「ミオ、何か幽霊みたいな顔してたよ」
そこではたはたとトランプが音もなく崩れた。
「…何よ、それ」
私は文庫本から顔を上げて言った。凛は相変わらずトランプに集中している。
「ぼくわかるんだよねー。そういうの」
「わかるって?」
「何ていうか、死に近いひとっていうか」
何よ、それ。そう言おうとするより先に、「できた!」と凛が言い、見るとピラミッドが綺麗な形で完成されていた。
私は反抗する機会を逃してしまい、収まりどころのない気持ちを抱えたまま、曖昧で複雑な顔をした。
凛はそんな私を見て「でも今は生きてるってわかる。いい顔してるよ、ミオ」と言った。
にこにこ笑って、トランプをまとめる骨ばった手が男の子っぽくて。
たくさんの猫が行きかうこの家で、夏の間だけひっそりと暮らしているあなたの方がよっぽど幽霊じゃない。
でも、アリスがその体を起こして伸びをして、そのまま私の方に向かって擦り寄ってきた時になぜか涙がこぼれた。
「ほら、アリスもそう言ってる」
凛がそう言って、私は泣いたまま、「うん」と言った。
冷蔵庫がまたぶーんと唸った。
 
私たちは朔を学校のある駅まで迎えに行くことにして、キャラメルの箱のような色の電車に乗り込んだ。
電車に乗るなり凛は扉脇の席に座り、「今から他人のフリごっこしよう。」と提案した。
「え?」
私が怪訝な顔をすると、
「いいから。ミオは向こう側の扉のほうに立ってて。ぼくたちは他人だよ。そういう設定。いい?」
「よくわかんないけど、凛と離れていればいいのね?」
「うーん、ちょっとちがうんだけど、まぁ、いいか」
そういう訳で学校のある千駄ヶ谷の駅まで他人のフリごっこがスタートした。
とりあえず凛のことをまったく知らない人と思えばいいということなのだから、徹底的に無視して車窓の風景を見ていることにしていた。
遠くの方に黄色い飛行船が見えた。
かわいいなぁと思って眺めていると、他人のはずの凛が私を呼んだ。
「ミオ、ミオ。もうゲームおしまいにしようよ。」
こどものようにはしゃいで手招きしている。思わず笑ってしまった。
「なぁに、もうおしまい?」
「うん、だって、」
「「飛行船」」
二人の言葉が重なる。私たちは笑いあった。
それから凛は席を次の駅で乗ってきたおばあさんに譲って私のいる位置まで移動してきた。
おばあさんはお礼を言い、私たちに向かって「仲が良いのね」と言った。
おおいばりで「そうなんだ。」と答えている凛の横で私は小学生の男の子みたいに真っ赤になってしまった。
いい空間だった。
後々他人のフリごっこの感想を聞くと「ミオを違った目で見れて面白かった」と言っていた。
他人の目から見た凛は、細くて骨ばっていて、魂の色が綺麗だとわかるような澄んだ感じだった。
いろいろなところを旅していろんなものを見て、若くして大きなものを見てきたひとのような、そんな目をしていた。
汚いもの、綺麗なもの、いいもの、醜悪なもの、善と悪、
そんなものを、すべて見てしまった人のような。
そのことを言うのが怖くて、私は何も言わなかった。なぜだろう。怖かった、確かに。
 
学校のある駅に着くと、凛は何も言わず手を握った。
ここは学校がある場所で、私がいつも引き返したくてたまらなくなるところ。でもそこで立ち止まる。
引き返すってどこへ?
氷のように冷たい家だろうか。
駅前の交差点で体を硬くして青信号を待っている時に、凛は私の手を取った。
こんなことは何でも無いかのように。
思ったより凛の手は大きくて、それは私のとは全然違う、男の子の手だった。
「凛、」
名前を呼ぶとにっこり笑って、
「小さな手」
と言った。凛が絡めた指先がひんやりと冷たかった。繋がったそこが世界の中心のような気がした。
ただ当たり前のことのように、凛は私の手を引いて、歩いた。
いつも見飽きている景色が違って見えた。
すれ違う人の中にいくつか知っている顔があった。
好奇の目。でも私は守られていた。
異国の、私の国とは違うこの、綺麗な目をした少年。
校門まで行かなくても朔に出会う事ができた。
朔は繋がれた私たちの手をちらりと一瞥してから呆れたように笑った。
「凛、手が早いよ。」
凛は「サクに言われたくない。」と言って笑った。二人の顔が夕闇に映えた。
遠くの方で蝉がまだ、鳴いていた。
 
その夜私たちは肩で息をするまでたらふく肉を食べ、凛が買い置きしていた花火をした。
焼肉でてかった顔を寄せ合って、その地味な手持ち花火に火をつけた。
しゅう、という勢いの良い音がして火花が零れる。
「炎色反応」
と朔が情緒のないことを言った。
凛はただにこにこしていた。音のない映画のように、凛の笑顔だけが闇に張り付くようだった。
子供の時から線香花火は嫌いだった。
派手で華やかな花火の後、最後の締めくくりとしてするあの湿っぽさも嫌いだったし、
玉を落とさないようにと、心を落ち着けるため、あの短い時間の中、妙に心がしんとなるのも哀しかった。
それに線香花火の燃え方はなぜか人の生き死にについて考えさせた。
だから私は線香花火はしたくない、と言い、朔も凛もそれに賛同してくれた。
まだ、この真昼の夢のような空間はなくしたくなかった。
終わりにしたくなかった。
先に帰った朔を見送って、私たちは和室に蚊帳を張った。
蚊帳の中、ぶんぶんと煩く飛び回る蚊を罵り合いながら、私たちはセックスもせず、ただ子供のように手を繋いで寝た。
目を瞑ると、赤や緑や黄金色の火花がちらちらと夢の名残りのように浮かんで消えた。
 
 
 
 
 
 
 
「凛の手は冷たかった。びっくりするほど」
私は言った。
「手を握ったの、何度も。その度に彼の手の温度の低さに驚いた。凛の手は、何となく温かいような気がしていたから」
朔は黙って私の話を聞いていた。
目をつぶると今でもあの夏の持つ強烈な色が襲ってきそうだった。
眩暈がするほど濃く、すべてが腐敗していくかのような熱を持った季節。
あの夏、
私と凛は孤独だった。
ひとりぼっちでそして、強くて絶対的で甘美な香りを持つ世界に憧れていた。
楽園。
そんなもの何処にも無いというのに。
ただ、貪るように欲して、望んで、願って、欲望のままに。
神様なんて多分、いない。
何処にもいない。
 
 
 
 
 
すべてが腐敗していく夏という凶暴な世界の中で、
私たちが過ごしたあの日々は
泡沫の夢のようだった。
夏が過ぎれば嘘のように消えてしまう、
ずる休みを繰り返す子供たちの見た、儚い夢。
甘くて、やさしくて、ばかみたいに楽しくて、まばたきをしている間に消えてなくなってしまうような、
そんな短い、
儚くも幸福な、最期の夏。
 
 
 
 
 
 
 
その日は、やたら風が強い日だった。
空はどこまでも青く晴れ渡り、遠くの方で積乱雲が空を支配するかのように膨れ上がっていた。
ラジオをつけると台風が近づいている様子だった。
室内にいて空を見上げているとそんなことは微塵も感じられないほど晴れているのに、実際に外に出てみると強い風が吹いていた。
「台風だって」
私が言うと凛は、
「へぇ、ぼく台風好きだな」
と言った。どんなところが?と聞くと
「せんぶなくなっちゃって後には何も残らないような感じが」
と言った。哀しすぎる答えだと思った。
「意外」
そう言ったのと同じくらい強い気持ちで凛らしいと思った。
哀しいくらいに凛らしい。
「そうめん食べる?」
私は言い、凛の拾ったおおきな鍋でそうめんをぐつぐつ茹でだした。
凛は「日本の夏だねー」と笑っていた。
朔は補習中だった。
みょうがと、葱と、柚子と、炒った胡麻を用意して薬味を本格的に揃えてから、
私たちは向かい合ってそうめんを食べた。
今でも夢に見る。あの黒光りするところどころ穴の開いた床、きちんと閉めても水の滴り落ちる流し、
凛の好きだったトランプ、朔のやりかけのクロスワードパズル、猫たちの水や餌を入れた銀の入れ物、
私たちの隠れ家。堕天使の棲む家。
凛はおいしいと言って何度もおかわりをして、満腹になると眠ってしまった。
窓を開けると強い風が入って、空き缶を繋げて作った風鈴ががらんがらんと不器用な音をたてた。
窓を閉めてから、私は凛の眠る隣に座って手を繋いだ。
ひんやりとした凛の左手。
「ん、」
凛は軽く目を開けて私を見ると、こどものように安心して笑った。
世界が死んでしまったかのように静かな午後だった。
凛はそのまま軽く状態だけを起こして、
その赤い唇を寄せるだけのキスを、
私にした。
 
 
夕方、補習を終えた朔が迎えに来て、
「台風が来るから」という理由で久々に家に帰った。
私は残ると言ったけれど、凛は「ぼくもサクのうちに泊まるから」と言った。
「アリスや他の猫は?」と食い下がるように聞くと、「彼らは賢いから大丈夫」との答えが返ってきた。
私はしぶしぶ納得して、もう何年もまともに口も聞いていない父や母の住む家に帰った。
 
 
台風は夜になって訪れたようで、昼間の空が嘘のように激しい雨が降った。
びゅうびゅう風が窓を打ちつけ、案外ぼろい部屋の窓ががたがたなった。
その夜私は夢を見た。
そこには何もなかった。
荒涼と広がる大地の先に、ダークグレーの海が見えた。
空は白く、どこまでも果てがなく広がっていた。
強い風がびゅうびゅう吹いていた。
隣には凛がいて、私たちは手を繋いでいた。
私の右手と凛の左手には真っ白い包帯がぐるぐる巻かれていて、お互い真っ白い服を着て、海の方を眺めていた。
死装束のようだった、何となく。
「ここは何処?」
と聞いたら
「世界の涯てだよ」
と凛が言い、笑った。
あの痛すぎる笑顔で。
「そう、」私は言い、これから起こることのすべてを知っていた。
凛と一緒なら怖くないと思った。
凛と一緒にいきたいと思った。
それなのに、直前になって凛はお互いの手に巻かれた包帯をほどいて両手を広げる。風が白い包帯を巻き上げていく。
両手を広げたまま凛は、ダークグレーの海に向かって飛んだ。
左手の傷跡が自虐の記録として目に焼きついたまま。
凛の笑顔だけが目蓋に残った。








 
 
 
 
 
 
西暦二〇〇四年 八月、
凛はんだ。
 
 
 
 
 
 







翌朝、台風一過で空はよく晴れた。
昨日とほとんど変わらない空なのに、風は穏やかだった。
そしてその風には僅かだけどでも確実に秋が混ざっていた。
朝から警察の人が訪れて、「昨夜亡くなった皆川凛さんのことでお話を伺いたい。」と言った。
ミナガワリンという単語と私のよく知る、凛とが結びつくまでに結構時間がかかった。
私は回らない頭でしきりに考える。ダークグレーの海と空が夢の名残りのように張り付いていた。
昨日の夜、台風が通り過ぎる中、あの朽ち果てた洋館のお風呂場で、凛は手首を切ったそうだ。
死に方を尋ねると若い警察官が淡々とした口調で教えてくれた。
「そうですか、」
私は言った。
ゆらゆらと水が揺らめくさま、白く事切れた凛を想像することは簡単だった。
でも私が知っている凛とその凛は全然別人のようだった。
別人のようだけれど、眠る凛に赤い血はとてもよく似合うだろう、と思った。
とてもとてもよく、似合うだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西暦二〇〇五年 八月
 
また夏が来た。
大阪に行った朔から連絡が来た。あの洋館の取り壊しが決まったらしい。
「あまりいい印象がないからね。土地ごと手放すつもりらしいんだ」
半年ぶりくらいに電話をよこした朔はそんなことを言った。
「そう、」
「うん。」
多分、ふたりとも同じことを考えていたと思う。
「菅原、俺、来週研修で東京に行くんだけど、時間取れないかな。」
朔は言って、私は頷いて再会を約束した。あの、朽ち果てた洋館で。
そして私たちは並んで、ぼうぼうの庭を見ている。
風が吹いて私たちの髪を撫でた。
「もう1年も前のことだなんて、」
私は言った。
「菅原、大学はどう?」
「まぁまぁ。授業はおもしろいよ?」
私は大学に進学し、心理学を専攻している。大学進学と同時に家を出た。
「一人暮らしにも慣れたし、高校のときとちがって友達もできたし。」
そう言うと朔は優しい顔で笑った。
「朔は?大阪、慣れた?」
「俺もまぁまぁ。やる事が沢山あるよ。ようやく関西のノリにも慣れたかな、」
朔は関西の医大に進学した。朔の実力なら、東京の大学でも合格は必至だったけれど、朔自身が東京を離れることを望んだのだ。
「そう、」
私たちは黙り、しばらく伸びた猫じゃらしの先を見つめていた。
蜻蛉がとんできてその先に止まる。
時間は流れていた。私にも、朔にも平等に。
「朔さ、あのとき知っていたでしょう?」
あの日、あのよく晴れた風の強い、台風が来る日。
朔は猫じゃらしを一本手折って、「うん」と頷いた。
蜻蛉が僅かに秋の混じった空に飛んでいった。
「菅原も、知ってたでしょ。」
私は凛の傷だらけの左手を思い出しながら黙って頷いた。
 
 
 
 
 
「あのさ、さっき菅原が来る前にこの家を見て回ってたらこんなもの見つけたんだけど、」
そう言った朔が手に持っていたのはいつか3人でした花火の残りだった。
「そんなもの、どこにあったのよ。」
「多分、俺と凛にしかわからない。」
そう言った朔はすこし淋しそうで、だから、
「しようか?この花火。」
朔がそう言ったとき、私は頷いていた。
日が沈むのを待って、いつかのように荒れ果てた庭で私たちは花火をした。
大部分が湿っていて、それでもいくつかの花火は闇夜にその儚い命を散らした。
普通の手持ち花火はすぐに終わってしまい、私が嫌って避けたせいで、線香花火ばかりが残っていた。
最期の匂い、死を連想する儚さ。
それでも、あの夏を終わりにしなければ私たちは永久に前に進めない。
その細く螺子を巻いたこよりの先に火をつけて、何となく供養をしているような気持ちになって私たちは花火をした。
ふたりとも同じことを考えていた。
湿っていたせいか、花火はすぐに終わった。
すぐに、呆気なく。
潔く落ちる玉を見つめて、私は否が応でも凛のことを考えた。
赤く薄い唇で私に口づけた、異国のこどものように、恐ろしいほど綺麗な目を持つ凛。
凛が笑うと私はいつも泣きたくなった。
落ちてしまった玉を見つめて、そのままの姿勢で泣いた。
朔が覆うように抱きしめた。
朔の胸が、手が、再び触れた唇が温かく、流れるものはそのままに、私たちは闇夜の中、慰めあうように抱き合った。
私も連れて行って欲しかった。
その、荒涼とした世界の涯てまで。
すべてを持っていって、笑顔だけを胸に残した。鮮やかな残像のように。
「朔は生きてるんだね」
暖かな右手を取って、私は涙声でそう言う。
「菅原も生きてるよ」
私たちは、
生きて、此処にいる。
 
 
 
 
 
 
 
最期の最期でたったひとりで世界の涯てを見に行った凛の魂を思った。
凛は、淋しくないだろうか。
真っ白い空の下で笑う、凛とアリスを見た気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あの夏、
凶暴で、暑くて、風の匂いがいつも甘くて、凛が、そばにいた。
手を握ってくれた、
私の名前を呼んで、キスをした、
いつも、痛いくらいに笑っていた。
すべてを知っている、怖いくらい澄んだ目をしていた、
握った手はひんやりと冷たいのに、
触れた唇は温かかった。
何も言わずに空に持っていったあの夏こそが、
凛の遺書だった。
 
 
それは真夏の儚い白昼夢、永遠を歩く彼が見せた、この世の涯ての花火。
哀しすぎるくらい孤独な魂の歌う唄。
あの夏、確かに私はそれを聞いたんだ。



 
後書

この話は2年前に前サイトで書いたもののリメイクです。
この上なく救いのない話で、リメイクも迷いましたが、嫌いになれない話のひとつです。
晩夏、お盆、慰霊、
思いつく限りの夏を、この話には込めました。
夏が持つもうひとつの顔、
すべてを腐敗させ、その凶暴なまでの光が作る強くて濃い影。
私はきっと、そういうものが書きたかったんだと思います。
話を書きながらCoccoさんの歌を繰り返し聴きました。
タイトルのまんまですが、彼女の「うたかた」という歌がこの話のイメージのすべてです。
未熟な内容の上に、痛々しいストーリーであることをお詫びいたします。

二〇〇五年八月
空都雪
 
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