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大師匠


 わたしの住んでいる町は、猫が多い。

路地や、袋小路、ロータリーいたるところに現れては、わたしのこころを慰めたり、ちょっとあたためたり、にこにこさせたりなんかしていた。猫好きなわたしは、それだけでこの町が好きになった。まるで、町そのものが彼らの家であるかのように我が物顔なんだもの。

嫌なことがあったり、哀しいことがあったりなんかすると、彼らの世界に触れてみる。

アパートの向かいの屋根に住む、みーを眺めてみたり、パール商店街をふらふらしている猫の後を付けてみたり。それでも、うんと辛いことがあったときには大師匠(だいせんせい)を探してみる。

大師匠はかならずそこにいて、何をするわけでもない、眠っている時もあるし、貰ったエサを食べているときもある。ただ、生きているだけ。そんな大師匠を見ていると、わたしはちょっとだけ元気になる。明日もがんばろうかな、と思えてくる。大師匠はわたしにとって、文字通り、先生のようだった。人生の、先生。

 

大師匠を教えてくれたのは哲生くんだった。

 

「あ、大師匠、」

 哲生くんの家に向かう途中の小さな小道。何でもない家々が点在していて、薄汚れたアパートや、突然設計事務所なんかがあったりする、その道を私たちは手を繋いで歩いていた。秋のはじめで、風にまだ夏が残っていたころ。

「え?」

「ほら、あそこのアパートの階段のところ。キンモクセイの木の脇」

彼が指差した先には、でぶで毛並みががさがさで、片目が潰れた猫がちょこんと座っていた。じっとこちらを見ている。

「何だよ、お前。こんなとこにもいんの」

にこにこしながら哲生くんはその猫に話しかけた。どうやら顔見知りらしい。

「おともだち?」

「うん。この辺の生き字引みたいなやつ。俺がこの町に住み始めたころからいるの」

「へぇ、」

ふたりで大師匠を眺めていた。大師匠は時々、わたしにも触らせてくれて、触ると喉をごろごろ鳴らした。

「喜んでるね、」

「うん。うーちゃんが好きなんだって」

 やっぱりね、違いの分かる猫だね、と言うと、軽く殴られた。しばらくすると大師匠は、飽きたのかむっくり起き上がって歩き出した。

「行っちゃうよ」

「大師匠はさすらいのお方だから」

「スナフキンみたい」

「ね、行く場所がたくさんあるんだよ」

 それでも、どこにも属さないかんじが、渋くて格好良いらしい。哲生くんはそう言った。

「さてと、」

 区切りのようにそう言って、

「行こうか?」

当たり前のように手を差し出した。

「うん」

差し出された手のひらを、ただ軽く重ねるように合わせて、わたしたちは歩き出した。途中でアパートに着いたら飲む予定だった缶ビールを哲生くんが開けて、ふたりで回し飲みをした。

「ぬるい」

「そう言うな」

あずき色の空に月が浮かぶ。

「何だかいいにおい」

「キンモクセイのにおいだね」

 好きと呼ぶには頼りない、それでも、いいなぁと思う以上のきもちを持った、そんな夜だった。この先、どんどん、このひとのことを好きになるかもしれない、という予感がわたしを満たしていて、そんなことになったら、あまりの心細さにきゅう、と小さくなってしまいそうで怖かった。

 そんな風に恋のはじまりはいつも、小さなこどものようなきもちになる。

「哲生くん、」

 名前を呼んだら甘かった。

「うん?」

 背の高い彼が、わたしの声を聞こうと寄せるおでこを、夜の風が撫でていく。キンモクセイのにおいはどこか懐かしい。

「…何でもないよ。ビールちょうだい」

 泡立つようなきもちの波に、気付かないふりをして、わたしたちは歩き出す。

 何かがはじまる予感のする夜は、楽しいことの前の晩のような、わくわくしたきもち。それから、その先を踏み込んでいくのがすこし、怖いようなかんじ。

 すこしだけ、握る手のひらに力を込めた。

そうすれば、強くなれるような気がしていた。