月とブラジャー


 

別れようと思う。

台所の窓から見える半分の月に向かってアタシは決意する。

ご飯粒の残ったお茶碗を洗う作業にも慣れてしまった。ご飯粒は残さないで欲しい、と言っていた付き合った当初が懐かしい。今では、そんなことは口にすらしなくなった。

ヒロちゃんと付き合って3年半。一緒に暮らして2年。言って無駄なことは口にしないことが賢明だと気付いた。

改善する気がないくせに、返事だけはきちんとする、ヒロちゃんの癖にも、もう、うんざりだった。

出来ない約束はしないで欲しい。そんなの子どもでも知っている。

「ヤエコー、もうビールねぇよー」

居間からヒロちゃんの観ているテレビの音が聴こえてくる。アタシの嫌いなバラエティーをヒロちゃんは好む。ビールくらい自分で用意すればいいのに。冷蔵庫を開けるだけじゃん。

心の中でそう言ってアタシは洗い物の手を止める。

きゅっと音がして水が止まる。

「あと何かつまみみたいのあったろ。それも適当に持ってきて」

テレビの音が大きいせいか、それに合わせてヒロちゃんの声も大きくなる。

「んー、」

アタシは言って冷蔵庫を開ける。

確かこの間葉山くんが家に来た時に出したキムチの残りがあったはずだ。

ほら、あった。

皿に移すのも面倒な気がして、アタシはパックのままもっていく。もちろん、ビールも缶のままで。

「はい」

手渡すと顔も見ずに「ん、」と受け取る。こんなのはもう慣れっこ、日常茶飯事だ。

「ヒロちゃん、そのまま寝ないでよ。きのうもお風呂入ってないんだからね」

ヒロちゃんが汚くても別に困らないけれど、2日間お風呂に入っていない人とのセックスはやっぱり嫌だ。

ヒロちゃんは酔っ払うと必ずと言っていいほど潰れ、そして夜中に目を覚まして身体を求めてくる。

「うっせぇな、分かってるよ」

ヒロちゃんは悪態をついてプルトップを開けた。嫌がらせのようにテレビのボリュームを上げる。

アタシはため息をついて洗い物に戻った。

どたどたと音を立てて水が落ちる。洗い物は苦手な家事の中でも唯一好きなことだ。

汚れを落として流すときれいになるところがいい。とてもシンプルだ。

窓から見える月はぼんやりと滲んでいる。

明日は雨になるかもしれない。

次の日はやっぱり雨になった。

「やだなぁ、雨だと客足鈍るなぁ」

ひとりごちて仕事の準備をする。ベッドにはやっぱりそのまま眠ってしまったヒロちゃんが猫のように丸まって眠っている。疲れていたためか、思ったより酔いが深かったためか、セックスはせずに済んだ。眠っている時のヒロちゃんは何も言わないから好きだ。いつもより顔立ちが幼くなるのも、好き。そっと額に触れると、くせっけの髪の毛が湿気を含んでさらにしんなりしていた。

「髭、剃れよ」

苦笑いを含んだ声でそう言う。うっすらと伸びた無精髭を引っ張ると、「うぅ…」という声でヒロちゃんが呻いた。

もともと薄暗いこの木造アパートは雨の日は一段と暗くなる。まるで水槽の中みたいに、不健康な光が満ちている。

硬いパイプベッドの下には昨日、ヒロちゃんの飲んだビールの空き缶と、グラビアアイドルが表紙の雑誌。錆びた鉄の手すりの付いた窓辺からは、枯らしてしまったベンジャミンが恨めしそうな目でアタシを見ている。確か2年前の夏に同棲記念と称して駅前の花屋で購入したやつだ。

今でも覚えている。

ヒロちゃんは赤いTシャツを着て、アタシは薄いブルーのキャミにジーンズという格好だった。

一緒に住むのが嬉しくてアタシたちは笑ってばかりいた。

 ふたりとも貧乏だったので、駅から近くてお風呂の無い木造アパートを、安いから、という理由だけで借りた。築何十年というボロアパートでもそれなりに夢を見ていたアタシたちは、一緒に住んだら出来ることを数えてばかりいた。

あの頃は。

ベンジャミンもそのひとつで、観葉植物が欲しい、というのと、何となく育てていくものが欲しかったのとで勢いで買った。ばかみたいに名前まで付けて、ヒロちゃんの本名、道弘の道とアタシの八重子の子をくっつけて、『ミチコ』にした。げらげら笑ってお互いのネーミングセンスを罵り合った気がする。ミチコは重くてアパートまでの道を、電柱ごとにジャンケンしながら帰った。「負けた方が持つんだよ」なんてかわいい約束を交わしながら。

ばかみたい。

幸福すぎる。

あの頃は何も怖いものも、不安なものもなかった気がする、なんて神田川みたい。別にヒロちゃんのやさしさが怖かったわけじゃなかったけど。

それでも、ヒロちゃんのやさしさが無尽蔵で、アタシ達の愛が半永久的であるような気はしていた。

愚かだなぁ。

愚か過ぎて泣けてくる。雨のせいだろうか、ミチコのせいだろうか、別れを決めた途端、付き合った頃のことを思い出すなんて、呪いのようだ。

「ヒロちゃん、」

小さな声で彼を呼ぶ。

その声が届かなくなってしまったのはいつからだろう。

彼といては出来ないことを数えるようになったのは、いつからだった?

繰り返される怠惰な日々に、怒りも哀しみも通り越した。

それは、あきらめに近い。

それでも、確かに、ここにも幸福はあったのだ。

季節感のない、水槽のようなアパートにも春と夏と秋と冬が2回ずつ巡って、もうすぐ3回目の夏が来る。

雨が、汚いものも、哀しいことも、嘘も、言い訳も、枯れてしまった愛情もすべて、すべて流してきれいにしてくれると良いのに。

そんなことを思いながらアパートを出た。

帰ったら、どう別れ話を切り出そう。

見上げると手すりの無いベランダで、タコ足ハンガーにぶら下がったブラジャーが、5月の雨に惨めに打たれていた。