8.真昼の月

ちえちゃんに会った。すごく久しぶり。2年ぶりくらいだ。

よく晴れた日曜の昼下がり。私は買い物の途中だった。

ちえちゃんは2年前にアトリエで一緒に暮らしていた。いわゆるオカマというやつで、当時は役者を目指していた。いつも元気で明るくて、情にあつくて涙もろかった。

哀しいことに、実の女の子のさきちゃんよりも女らしかった。

私を見付けると、大きな声で名前を呼んで手を振った。私の周りの大人の人は大人の癖にこどもみたいな人ばかりだ。

「何やってるの、みゃあじゃない!やっだ、なつかしい!元気?あんた相変わらずちっこいのね!」

ちえちゃんはハイテンションで、それだけまくしたてると、人目もはばからずにぎゅうぎゅうに抱きしめた。あの頃から変わらない、ブルガリの香水の匂い。

ちえちゃんは、仕事に行く途中で、少し時間があるからとモスバーガーを奢ってくれた。2年前から常にダイエット中のちえちゃんは、季節限定の玄平もちのおしるこを食べる私をうらめしそうに見つめた。

「いいわねぇ、こどもは。何食っても太らないもんねぇ。肌だってつやつやだし、髪の毛だってアミノ酸大放出って感じじゃない?」

そう言うちえちゃんは、コーヒー(しかも砂糖抜き)だ。

「そんなことないよ。いろいろあるよ。子どもにも。」

たいして深い意味はなかったけれど、ちえちゃんは深々と頷いた。

「そうよねぇ。あんた昔から苦労してるものねぇ…」

「そう?」

「そうよ!」

そうか。私は苦労してきているんだ。自分ではなかなか思わないことだもんな…

「さゆきは?あの子はどう?元気にしてる?」

ちえちゃんは懐かしそうに目を細めて聞いた。私は本当に女の子の親友同士みたいに仲の良かったふたりを思い出した。

いつもけらけら笑ってばかな話で盛り上がっていた。

たいてい「男なんて…」という話題に行き着いていたけど。

「うん。元気だよ。毎日がんばってる。」

「そう…夢は叶いそう?」

「よく分からないけど。お金ももう少し貯めれば良いみたいだよ。」

「そう…あの子昔からがんばりすぎちゃうところあったじゃない?強がりっていうか、意地っ張りっていうか、もっと他人に甘えたら良いのにねぇ…」

涙もろいちえちゃんは、もう瞳が潤んでいた。

「でも、あんたの事はほんとうに大事にしてたから。思い出すわぁ、今でも。よくあの子の代わりに保育園まであんたを迎えに行ったものよ。覚えてる?」

「覚えてるよ。」

背が高くて、ごつくて、派手なちえちゃんは、実の親のさきちゃんよりもよくお迎えに来た。そのたびに、友達にちえちゃんがお母さんだと思われないか冷や冷やしたものだ。

お迎えはいつも一番最後で、だんだん暗くなっていく外を見ながら、心細いきもちになるのを必死で抑えた。

子どもが帰った保育室はがらんとして、広くて、先生がやさしくなればなる程淋しくなった。

ちえちゃんが能天気な声で、「みゃあー、お迎えよー。帰りましょー!」とやって来ると、恥ずかしいのと安心とで、いつもトイレに行きたくなった。

「あんたちっさかったもんねぇ。未熟児で生まれてさ。さゆき、必死で子育てしてたもんねぇ。」

ちえちゃんは労わるように私を見た。

保育園時代、私が淋しい思いをしないように、さきちゃんは相当がんばった。

かばんも、上履き入れも、パジャマ袋も、不器用なくせに手作りなんかして、「もう2度と出来ない」なんて笑いながら。

片親の子なんて保育園にはうんといて、それを差し引いても私は他の子に対して引け目なんか感じたことなかった。

私は知っていたからだ。

愛されていたことを。愛されて生まれてきたことを。

「あの子、どうしてる?相変わらずひとりなの?」

心配そうにちえちゃんは言った。アトリエにいるころからそうだった。いつも、自分のことより、人のことを心配していた。

私はじーのことを話してあげた。

らいおんみたいなじー。紳士的で、丁寧で、やさしいじー。

ちょっと間抜けで、笑うとうんとやさしい顔になる。

ちえちゃんは、私の話しを目を細めがら聞いていた。

「そう。いい人拾ったわね、さゆき。」

にっこり、観音様みたいに笑って。

「さきちゃん、じーのこと好きになるかなぁ?」

「さぁ?それとこれとは別なんじゃない?私の知っているさゆきは、もう人を好きになるのはこりごりって感じだったわよ。」

私の知っているさきちゃんもだ。

「じゃあ、じーともいつか別れる日が来るね。」

なるべく悲しく響かないように気を付けたつもりが、余計強がっている風に聞こえた。

ちえちゃんは何も言わなかった。

ただ、困ったように笑った。

 

別れ際、ちえちゃんは肩に羽織っていたストールを私の首にぐるぐる巻きにしながら言った。「苦しいし、いいよ。」と断ろうとすると、「昔からあんたは気管支が弱いんだからだめよ。」とおばちゃんみたいなことを言った。

小さい頃を知っている知り合いはこういうところにとても細かい。

私はありがたく受け取ることにした。

「いい?あんたの家はわりと特殊だし、出会いと別れのサイクルが速いから言っておくけど、出会わなければ良かったなんて思っちゃだめよ?別れがどんなに辛くても、一緒に過ごした日々のしあわせな記憶はいつかあんたを支えると思うから。あんたより倍生きてきたあたしが言うんだから本当よ?今の仕事、結構辛いこともあるけど、あんたたちと暮らしたあの日々を思い出すと今のわたしは笑えるんだから。ほんとうよ?」

ちえちゃんは、何度もほんとうよ?を繰り返していた。

まるで、自分に言い聞かせるように。慰める方が泣きそうな顔して。

 

ちえちゃんがアトリエを出たのは、良く晴れた冬の日で、山茶花の偽者のようなパッションピンクだけが、色のない冬の世界を鮮やかにしていた。

役者をやめて、オカマバーで働くことにしたちえちゃんは、当時付き合っていた男の人といっしょに暮らすという理由でアトリエを去った。

理由が浮いた理由だったので、荷造りもうきうきしていて、新居用の買い物に、私もさきちゃんも付き合わされたものだ。

結構値が張るイタリア製のソファーなんか買って、でも暮らすところは普通のしょぼい2DKなのに、ばかみたいだね、と3人で笑った。

そんな風に直前までわりとわいわいはしゃいでいたのに、アトリエを出る当日の朝になって淋しさがこみ上げてきた。

ちえちゃんとさきちゃんがお給料を出し合って買ったエスプレッソメーカーを持っていく、行かないで少しもめて、結局エスプレッソよりもフォションの紅茶にはまっていたちえちゃんが、『使わない』という理由をゴリ押した。

せっかくだから、最後にエスプレッソを淹れて飲もう、ということになり、しんみりしながら豆を挽いて、出来上がるのを待った。

いちばん最初にちえちゃんが泣いて、つられるように私も泣き、最後にはさきちゃんまでもが泣きだした。

冬の朝の光の中で、落ちるコーヒーを待ちながら、3人でおいおい泣いた。

「ばかみたい。一生の別れじゃないのにね。」「でも淋しいね。」「電話するね。」と言いながら。

荷物は先に送ってあったので、手ぶらで、赤い目をしながらちえちゃんはタクシーに乗った。

運転手に行き先を告げ、タクシーが走り出してもずっと、後部座席から私たちに手を振り続けた。

冬の澄んだ空気と青い空。緑色のタクシーと、手を振るちえちゃんの細い手首。

それからしばらくはエスプレッソメーカーを見るたびに胸が痛んだ。

ちえちゃんとの日々の思い出。

だったらやめれば良いのに、私たちは性懲りもなく、出会いと別れを繰り返す。

「友達はいいよ。友達になったら、失わないもん。」

さきちゃんは言う。

「あのね、みゃあ。誰かを好きになったら、失う覚悟もしなくちゃいけないんだよ。人を好きになるってそういうこと。」

さきちゃんによると、そういう覚悟もないのに、人を好きになることは自殺行為に等しいそうだ。

「さきちゃんはそういう覚悟、ある?」

小さかった私は聞いた。単純に知りたかった。私たちの、未来について。

「ないよ。もう、ない。」

幼い私の手をぎゅっと握り、さきちゃんは前を見つめる。

そうしなくても私はどこへも行かないのに。

さきちゃんを、一人にしたりはしないのに。

「でも、ほら。ちえちゃんとは友達だから、また会えるよ。」

鼻に皺を寄せて笑う、さきちゃんのやり方できっぱりとそう言った。

冬の張り詰めた空気の中で、さきちゃんの笑顔はくっきりと残る。意思的に。決定的に。

だからなの?友達になれなかったからもう「先生」とは会わないの?

その質問はさきちゃんを傷つける気がして、私はだまって心の奥にしまい込む。

あの時、真冬の空には、忘れられたように薄っすらと、きのうの月が残っていた。

満月より少し欠けた昼間のお月様は、ちょうど私たちふたりに似ていた。

頼りなくて薄い。

でも、私たちは確かにここにいる。