7.マゼンダ

父親なんていいものじゃないらしい。集団下校の時に一緒に帰る3つ年上のななえちゃんはそう言う。

「パパなんていたってウザいだけだよ。ゴロゴロしてばっかだし、遊びにも連れてってくれないし、たまに話してもサムいことしか言わないし。ママもいつも言ってる。大きな子どもみたいだって。」

「パパ何してるひと?」って聞いたら「エスイー。」という答えが返ってきた。システムエンジニアの略だって。

じーにエスイーの事を聞いたらパソコンを打つ真似をしながら「こういうことをする人。」と教えてくれた。どうやら具体的なことはじーも知らないみたいだけれど、何となく恰好良さそうだということは分かった。「じーはそういうことできる?」と聞くと「残念ながら、」という返事が返ってきた。

まぁ、そういうことができなくても、他にいろんなことができるからいいんだけどさ。

ななえちゃんは更に父親という生き物がどんなに愚鈍で、無神経で役立たずであるかを力説してくれた。でも、どんなに説明してくれても私にはそれが分からない。何しろ、父親なんていたことがないのだから。

毎年、この時期になると決まっていもしない父親のことを考えてしまう。父の日でもない、参観日でも、運動会でもない、それは決まってクリスマスシーズンだ。

街が電飾に彩られ、人々が華やぎ、クリスマスソングがいたるところに流れ出す。

さきちゃんの前でこの話をしたことは一度もない。別に今更お父さんが欲しいなんてことを言うつもりもない。ただ、何となく、冬の街の感じとお父さんのイメージが私の中で重なるのだ。

想像の中の、顔のない『お父さん』

『お父さん』は、想像の中では、枯葉色のセーターを着ている。大きくてたくましい腕を持ち、笑うと深い皺ができる。私を軽々と持ち上げて、更にさきちゃんの持つ重い荷物を持ってくれる。私に「欲しいものはないか、」って聞いて、言えば渋い顔をする。

「何だ、実愛はそんなものが欲しいのか。」

お父さんのの発音はとてもきれい。私は『そんなもの』程度のものを欲しがる小さな子どもで、さきちゃんは「みゃあばかりずるい。」と文句を言う。お父さんはさきちゃんも私もたちまち小さな子どもにしてしまう。

…とそこまで考えていつもため息をつく。世の中には出来ることと出来ないことがあって、私の願いは『出来ないこと』に分類される。

さきちゃんは人を好きにならない。もう2度と。

「世界でいちばん好きな人は、みゃあだけだよ。」

いつだったか、小さな私の頭を抱いて、そう言った。

まだ、じーがアトリエに来るうんと前。あの頃さきちゃんは遠くばかりを見ていた。

私を通り越して、私の細胞の中の誰か。DNA。

私たちは多くを望み過ぎないよう気を使って生きてきた。

ふたりで。ふたりきりで。

アトリエにはじーの他にもいろんな人が来て去っていった。

若いバーテンダーとか、女子大生とか、役者のたまごとか。どの人もみんな気さくで、笑ってばかりいる日々だったけれど、仲良くなりすぎないように細心の注意を払った。

「誰かの心の中に自分を置くということは大変なことだよ。逆もいっしょ。誰かの心の中に自分を見つけてしまったら、私たちはこのままでいられなくなると思うから。」

これはさきちゃんの口ぐせで、初めて聞いたときはまだ小さくてよくわからなかったけれど、今なら何となく分かる。

私は、想像の中のお父さんがじーに似てしまわないように細心の注意を払う。だって、そんなの哀しすぎる。

帰り道の想像はいつだって頼りなく、心細い。

青く染まる街、光るお店の看板、焼き芋屋さんの炭のにおい。

赤いランドセルをぐるぐる振り回して、どこか遠いところまで行けたら良いと思った。

どこか?

私もさきちゃんもうんとハッピーになれるどこか。

シチューのCMみたいにばかみたいにあったかいどこか。

私は泣きそうになるのをこらえる。

 

夕食はムカつくことにシチューだった。

こういうとき、私とじーは以心伝心できないタチなんだなぁとつくづく思う。

沈んだ声で「ただいま。」と言うと、さきちゃんのエプロンを借りて、うかれた格好のじーが「おかえり。」と出迎えた。何ていうか、おめでたい。人の気も知らずに…ご丁寧におたままで持っている。

「ごはん、何?カレー?」

と聞くと、

「ブー。ホワイトシチューです。しかも、ロールキャベツ入り。」

とにこにこしながら答えた。

「にんじんは星型にしますか?」

『お父さん』は絶対こういうことは言わないなぁ、と思いつつも、「…します。」と答えている自分に脱力してきた。

「じゃぁ、みゃあも手伝ってよ。かばん置いて着替えておいで。」

「うん。さきちゃんは?」

「まだ、仕事。もう少ししたら終わるって、さっきメール来たよ。」

「そうなんだ。」

月、水、金の仕事の他に、さきちゃんは昼間、花屋さんでアルバイトをしている。いつか小さなお店を出すのが、さきちゃんの夢。

夕食をもらって満足そうなジャン・レノが足にまとわり付いてきた。私はジャン・レノを抱き上げた。

意味もなく泣きそうになるってことあるけど、この時がまさにそうで、ジャン・レノを抱いたまま、私はぽろぽろと泣いた。情緒不安定かも。

私の涙を見て、じーは必要以上にあわてたりしなかった。

そりゃあ、少しはびっくりしたみたいだけれど、オロオロしたり、涙の理由をしつこく聞いたりしなかった。ただ、肩をポンポンって叩いただけだった。

ただ、それだけ。

心得ているのかもしれない。昔ホストをやっていたことがある(らしい)ので、情緒不安定な女の子の扱い方は。

ただ、それは、あまりにも優しすぎた。

義理でするのにはあたたかすぎた。

思ったよりも、じーの手は大きくて、見上げた笑顔がやわらかくて、私はまた思ってしまったのだ。

お父さん、

 

 

荷物を置いて台所へ行くと、じーが紅茶を淹れてくれていた。じーはココアの淹れ方はへたくそなので、私にお茶を淹れるときはたいてい紅茶になる。

冷蔵庫にはりんごジュースだって入っているのに、こういうときはあたたかい飲み物が良いと知っている。じーはとても丁寧に人のきもちを扱う。小さな子どもにだって変わらず敬意を払う。そこがじーの良いところで、好きなところだった。

「飲む?」

「…飲む。」

「ミルク入れる?」

「入れる。」

短いやり取りを交わしながら、じーがお茶の準備をしている間に、私はクッキーを用意した。

自然と出来上がっているリズムと流れ。

シチューはもう済んでしまったらしく、弱火でことことと煮立てられている。

キッチンのガスの、青い炎。ラジオからは絞ったボリウムで6時のニュースが流れていた。

じーもさきちゃんもテレビよりもラジオを好む。

見ると聞くとを両方いっぺんにするのが嫌いなんだそうだ。

私はテレビも好きだけど、時々映像は強すぎる、と思ってしまうことがある。強すぎる映像はしばしば空気を壊してしまう。そのつもりはなくても。

「で?」

「うん?」

「どうした?何かあった?」

じーは聞き出し方が上手い。聞いてくるタイミングが上手なんだと思う。それとも、私のじーに対する気持ちが違うからなのかな。

なぜか、ぜんぶ話しても良いような気がする。じーに、許されたくなる。甘やかしてもらいたくなる。

そして、そういう瞬間を渇望しているような気が、する。

「うん…」

私はゆっくり紅茶を飲む。やっぱりじーは淹れ方がへたくそだなぁ、と思いながら。

「テストの点、思ったより悪くて、」

じーは自分用にほうじ茶を淹れるため、急須にお茶っ葉を入れる。私は、男の人がこういうことをするのが好きだ。不慣れな感じがかわいいと思う。お茶は、いつもさきちゃんが淹れるから。

「飼育係の仕事、誰もしてくれないし。私の他に2人もいるのに…」

じーはははっと笑った。

「飼育係なんだ、みゃあ。」

変なところを拾うな…。

「うん。クラスでね、蚕とハムスターを飼ってるの。」

「蚕か…キモいね。」

男のくせに、じーは虫とか蛙とかが大嫌いだ。一度、蛾が間違えて入ってきたときは大騒ぎしていた。結局さきちゃんが逃がしていたけど。男の子ってそういうのに強いんじゃないのか?ふつう。

「私は好きだよ。白くて、何かきれいなの。アンジェラって名前まで付けた。」

「蚕にアンジェラ…」

「天使のことはエンジェルって言うでしょう?少しもじったんだよ。天使みたいに白いから。」

「何か…いろんな意味ですごいね、お前。」

「そう?」

「うん。さすが、さゆきちゃんの娘だね。」

そう言う、じーの姿は何ていうか愛しいものを見るような感じだった。

私も、さきちゃんも、ふたりの中にある同じ血液も。

そして、そのもう半分の血液を持つ誰かも。

全部ひっくるめて愛しいみたいだった。

よく分からないけれど、男の人に愛された実感というものをはじめて体験した瞬間だったのかもしれない。

「生き物が好きなのは遺伝かぁ…」

しみじみとじーが呟き、

「かもね。」

と私は笑った。

思えば、ジャン・レノもじーも、全てさきちゃんが見つけてきたのだ。

「じー、」

「ん?」

「お母さんが欲しいと思ったこと、ある?」

私はおそるおそる聞いた。かなりそっと。

「あるよ、」

まるで、言葉を抱くように、壊れてしまわないように気をつけるようにして、じーは答えた。

自分の返す言葉の正しい重さを、じーは知っていた。

シチューがことこと音をたてる。もうすぐ、仕事を終えたさきちゃんが帰ってくる。

きっとさきちゃんは、冬のにおいがする。