6.正しい世界の在り方2

家に帰るとさきちゃんがいなかった。じーが迎えてくれたので、「仕事は?」と聞くと「今日は早めに終わった。」と言った。

仕事と言ってもアルバイトで、じーはいろんなバイトをしている。

今日は確か引越し屋のはずだ。

「おかえり。」

じーはにっこり笑って言った。自信たっぷりに。

「おかえり、みゃあ。」

染みるなぁ、と思った。やさしいなぁ、と。

じーの声の温度はいつもあたたかい。私はこの人の声が、いつか日本中で聴けるようになる日の事を願った。

「さきちゃんは?」

「夕飯の買い物。何かいるものあったらメールして、だって。」

「買い物…」

「うん。何が食べたい?何か食べたいものある?」

じーは優しい。私を甘やかす。

私が落ち込んでいると知っていて甘やかす。私はじーに甘やかしてもらいたいから必要以上に落ち込んだ振りをする。

「何も、」

「じゃぁ、散歩がてらさゆきちゃんを迎えに行く?」

じーがいたわるようにそう言ったので、私は頷いた。

そこで「うん。」と答えないと、じーが傷ついてしまうような気がしたから。

 

商店街の道をてくてく歩いた。じーとふたりで。手を繋いで。

傍から見たら私たちはどんな関係に見えるのだろう。

お兄ちゃんと年の離れた妹、叔父と姪、出来てしまった子ども、何しろじーがうさんくさいので、想像はどんどんやばい方へ行ってしまう。

「何か俺ら怪しくない?俺悪いひとみたいじゃない?」

じーが考えていたこととまったく同じことを言うので笑ってしまった。思考回路が8歳並。

商店街はおいしそうな匂い。肉まんやお惣菜の匂い、八百屋のおじさんの威勢の良い掛け声、肉屋のお兄ちゃんの呼び込み、パンの焼ける匂い。

さきちゃんとふたりで買い物をするときは、さきちゃんがふらふらと寄り道をしたり、肉屋のお兄ちゃん(さきちゃんの好み)に惑わされたりするので監視が大変だ。

じーはそんなことないので、しりとりなんかをしながら歩いた。

私の歩幅に合わせてゆっくり歩く。

残酷な秋の夕方でも、背の高いらいおんのようなじーと歩いていると守られている気分になる。

秋風がぴゅうぴゅう吹いて、夜の始まりの街は水槽のようだ。寒天のような青。淋しい色した琥珀。

「じーはおじいちゃんやおばあちゃんを泣かせたこと、ある?」

しりとりにも飽きたので私は聞いた。

携帯に電話をすれば良いのに“探し当てたいから”とじーが言うので、さきちゃんにはまだ会えない。

「連絡してどこどこ〜ってのも良いんだけどさ。何かね、つまらないじゃん。感動がないじゃん。」

じーは何でもかんでもゲームにしたがる。

子どもみたい。

「それにみゃあとデートもしたいじゃん。」

ばかみたい。でもちょっとときめいた。ちょっとだけど。

話を元に戻そう。じーの子ども時代。お母さんがいないことは知っているから、お父さんか、おじいちゃんか、おばあちゃんだ。

「泣かせたよー!そりゃあ、もう!今も泣いてるんじゃない?」

じーは自信たっぷりに言った。まるでそれが名誉なことみたいに。

「だめじゃん。大事な人泣かせたりしたら。最低だね。」

誰に言っているのかわからないけど、私は言った。

「厳しいね、お前。」

「自分の好きな人が自分のことで泣くの見るのって気分悪いよ。世界一悪い子になった気がするし…。」

「そうか…。」

「そうだよ。だから良い子にしてた方が良いと思う。」

「そう思うわけ?」

「そう思う。」

だって、やっぱりさきちゃんには笑っていて欲しい。

「でもさ、それもそうかもしれないけどさ、子どもは好きなことやって笑ってるのがいちばんだと思うよ。俺、人の親になったことないから分からないけど、偉大なる大原澄江もそう言ってたもん。」

「…誰?それ。」

「俺のばあちゃん。」

「あ、そう。」

脱力した。じーはにこにこ笑って続ける。

「俺の親父、中2の時に出て行ったって言ったじゃん?あれね、何か友達にフィジーでダイビングショップやってる奴がいて、一回いっしょに付いて行ったっきりフィジーに取り付かれちゃってさ。原地でダイビングショップ手伝いながらサンドイッチ屋やるって、思い立ったら即実行だよ。すごくない?俺、まだ義務教育中だったのに。」

「すごいね。何か、めちゃくちゃだね…」

さすがじーの父親だと思った。やることがワールドワイドだ。

「でしょう?14歳の俺も呆れて物も言えないよ。今思えば親父のそういうところに母親は付いていけなかったのかも…よく知らないけどさ。それでじいちゃんは怒って勘当だ、とか言い出すし、ばあちゃんは泣いちゃうし、俺はグレちゃうし…」

「グレたの?!」

「もうグレるしかなくない?そんなぐだぐだな両親持ってさぁ!まじめに勉強するのとかばからしくなるじゃん。まぁ、そういう年頃でグレるきっかけが欲しかったのかもしれないけど…」

「うんうん…」

この話、さきちゃんは知っているのだろうか。知っていたらげらげら笑ったにちがいない。そういう人が音楽やるなんて、何ていうか分かりやすすぎる。

「親父が向こう行ってからは俺も荒れてて一時期家の中とかすごかったの。それなのに、親父がまた能天気な写真とか送ってくるんだよ。しかもばかなショットばっか。何だかみんなして怒ってるのばからしくなってさ。俺も受験とかあったし。そうこうしているうちに結局落ち着いちゃって。何だか親父の思うように丸め込まれたとこはあるなぁ…」

じーがしみじみと言うのでおかしくなってついげらげら笑ってしまった。人の家のことなのに…上には上がいるものだ。

「でも、俺がこっち来る少し前、ばあちゃんが入院して、いよいよ危ないって時に親父に知らせたんだ。さすがに死に目には立ち会って欲しいじゃん。」

「そしたら血相変えて飛んできた。冬で、雪がいっぱい降って寒いのにさ、ひとりだけ間違えたように真っ黒に日焼けして浮かれた柄のTシャツなんか着て…よっぽど殴ってやろうかと思ったけど。」

商店街の中にある、駐輪場の植木に腰掛けて、私たちは話した。

私はミルクティー、じーはコーヒーと赤マル。

煙が秋の夜空に吸い込まれる。細く、頼りない感じ。

「ばあちゃんの手、しっかり握ってさ、元気になったらフィジーに来いとか、温泉にも連れて行ってやるとか、ありえない約束するの。貧乏人のくせに!ばあちゃんの前ではにこにこ笑ってさ、病室出ると急に老け込んだようにしょげてさ、そういうの見てたら怒る気もないっていうか。いや、もうじいちゃんもばあちゃんも俺も、とっくに許していたんだと思うんだよね。あとは意地の問題だけで…。」

私はじーのお父さんというひとを想像してみた。

ちょっと頼りなくて、目元とか笑った感じがじーに似ているといいと思った。実際はじーのがお父さんに似ているんだろうけど。

「ずっと聞きたかったんだろうな。親父はばあちゃんに恨んでないか聞いてたよ。それから何度もごめんな、って言ってた。謝るくらいならフィジーなんて行くなよ、なぁ?」

「おばあちゃん、何て?」

「恨んでないって。結局のところ親は子どもが元気でいてくれさえすればそれで良いって。本当はきっといろいろあったんだと思うけど、その一言がやっぱすべてだと思った。」

じーはきっぱりとそう言った。すがすがしいくらいだ。

「そうか…」

「うん。」

「まぁ、これは俺の家の、しかも親父のパターンだからきっと人それぞれだとは思うけど、親なんてみんな根本はそうなんじゃない?俺が言うのも何だけど、みゃあは愛されてるよ。」

じーは突然、しかも前触れもなしに泣かせにくる。

ずるい。こころの準備が出来ていないというのに。

「知ってるよ。」

「良い子じゃないみゃあもさゆきちゃんは好きだよ。」

知った風なことを…こいつ、調子良いなあと思いつつも、本日2回目の不可抗力の涙が出た。

「みゃあはみゃあらしくいるのがいちばんだと思うよ。うまく言えないけど。」

じーはそう言って笑った。大きな手を私の頭に乗せ、よしよしってするように撫でた。じーの着ている皮ジャンの匂いがした。じーの撫で方はさきちゃんのとは違う、不器用で荒くてゴツくて、わしゃわしゃって感じだった。

私は知らないけれど、『お父さん』みたいだと思った。

『お父さん』がこんな風であるなら、世の中の『お父さん』を持つ子どもが羨ましい。

私は女教師のことも、荻原達也のことも忘れていた。

じーがいてくれて、良かった。

「さてと、」

区切りのようにじーが言って、さきちゃんに電話をした。5分くらいして合流したさきちゃんは来るなり、「重いー。つむじくんが電話してくれて助かったー。」とじーに荷物を持たせていた。

玉ねぎ、挽肉、マッシュルーム、青林檎、生姜、ミネラルウォーター。

「今夜はハンバーグですか?」

じーが聞いて、

「ハンバーグですよ。しかも、和風!」

さきちゃんが答えた。

「やったね!」

じーははしゃいで、私に同意を求める。ハンバーグは私の好物だ。和風だけど。

私は頷いて、ふたりの手を取る。例のごとく車道側からじー、私、さきちゃん。

「うわ、みゃあの手、すごい冷たい!何、あんた、冷え性だっけ?」

「ちがうけど…じーとこの寒空の下一時間近く散歩したから…」

「散歩じゃなくてデートじゃん。」

「あんた、こども相手に何やってるの。」

「すいません…」

さきちゃんに怒られていて、本気でしょげているじーにウケた。

 

私は幸福だと思う。

例えそれが人の言う幸福の基準からは少しばかりズレていたとしても。

大好きなひとがいて、そのひとも私を大好きだという事実。

愛されている自信はとても強い。

私が幸福だと思っていることが、さきちゃんにきちんと伝わっているといい。そう思う。