5.正しい世界の在り方1

私がまだ今よりうんと小さかった頃、家には男の人がいた。

その人は背が高くて(じー程ではないと思うけど)眼鏡をかけていて、ちょっと神経質そうで、乾いた葉っぱみたいな匂いがした。どのくらい一緒に住んだのか分からない。けれど、記憶の中のその人は、いつもグレーの霜降りのセーターか、ばりっとした背広を着ていた。さきちゃんはその人のことを『先生』と呼んでいた。
何の先生なのかは分からない。さきちゃんがそう呼ぶので、私もその人のことを『先生』と呼んでいた。先生は何も教えてくれなかった。少なくとも、私の知りたかったことは。先生は雪の降りそうな曇った日にアトリエを去っていった。
先生が出て行った日のことは、なぜかよく覚えている。凍えそうなほど寒い朝で、私はベットの中にいた。さきちゃんと先生の話す声がぼそぼそと聞こえて、その決して激しくないけんかの感じ、別離の予感が私の部屋の中にまで染み込んできた。ふたりは最後に私の部屋に来た。まだ朝も早かったので、そうっと思いやるようにドアを開けた。その行動のすべてが私を思いやるためだということを、私はきちんと知っていた。そして、私に対する愛情と、先生が出て行ってしまう事は秤にかけられないことだということも。
私は目を瞑ったまま寝たふりを通した。身体を硬くして、猫のように丸まって。先生は私の額に手を当てて、そっと私の髪の毛を撫でた。いつも先生の手は冷たくて、びくりとならないようにうんと気を使った。先生を哀しませてしまわないように。来た時と同じように静かにドアを閉めて、先生はアトリエを去った。
私が4歳の冬だった。

そんな思い出のせいか、今でも『先生』と名の付くものは苦手だ。学校の先生、塾の先生、お医者の先生。この世界にはありとあらゆる『先生』が存在する。『先生』には淋しい印象とおいてけぼりな感じがつきまとう。

何でこんなことを思い出しているかというと、今まさにその『先生』と呼ばれる人種と対峙しているからだ。放課後で、広い教室には私、ひとりきりだった。よくあることだけど、話のテーマは「素行」。自慢じゃないけど、私の人生においてこのテーマでの話し合いはすでに5回目だ。本当に自慢にならない。

その日、私はクラスメイトのひとりを階段から突き飛ばした。

『先生』の質問の要点は『何でそんなことをしたのか』と『その子に何かされたのか』の2点に絞られていた。私はずっと黙っていた。『先生』に話していい方向にいく事なんてひとつもなかった。

「岸本さん、」

ぴりり、と張り詰めた口調で若い女教師は言う。彼女は何を知りたいのだろう。そして、私にどうして欲しいんだろう。答えを知っているような気がしたけど、知らない振りをし続けた。

子どもであることは私の唯一の武器だ。

「こんなことを言いたくはないのだけれど、」

女教師は続ける。

「あなたが話してくれないとあなたが悪いことになるのよ。荻原くん、怪我をしてしまったもの。」

私は突き飛ばしたクラスメイトのことを思った。荻原達也という名前で、彼とは普段から気が合わない感じだった。

「ムシャクシャしたからやっただけです」という今の若者にありがちな回答ができたらどんなにいいだろう。そしてその答えは当たらずとも遠からず、という気がする。私は何て答えたらこの場が収まるかばかりを考えていた。女教師は深くため息をつく。

「岸本さん、」

追及され、思わず下を向いた。自分の上履きに書かれた『きしもとみあ』というさきちゃんの文字、それにいたずら描きのように添えられたじーのにゃろめ(左右ふたつの上履きをぴったり合わせると完成する)を見ていたら不覚にも涙が頬を伝ってしまった。一度流れてしまった涙は止まることなく、最初は気が付かなかった女教師も私の号泣っぷりにあわてふためいた。

「岸本さん?やだ、どうしたの?」

とおろおろし、肩を抱こうとした。私はその手を振り払い、泣きに泣いた。

哀しかったんじゃない、悔しかった。

女教師に追及されている現実ではなく、心無いクラスメイトのことでもなく、私が思い出していたのは、この新しい上履きを下ろす前の晩のことだった。

さきちゃんが「新しいものに名前を書くときって緊張する」と言うので、じーが緊張を解すためににゃろめを描いた。しかも、超、へたくそ。私はピカピカの上履きがそんな風になってしまって、泣いたら良いのか、笑ったら良いのか分からずに困っていた。その上履きにまつわるかわいいやりとりが、セピア色の教室中に押し寄せてきたのだ。とめどなく。

どれだけの言葉を持ったとしてもさきちゃんが私のことをどんなに大切に思っているかなんて伝えることはできない。じーが、見た目はああでも、優しくて、子どもをばかにせず、必ず私の目線に立ってくれるということを伝えることができない。

世界の彼らに対する評価はいつもそんなんだ。

形容する言葉やキーワード。シングルマザー、水商売、ドロップアウト、フリーター。

そんな形容詞で、さきちゃんを、或いはじーを語ることができるとは思えない。それなのに。

荻原達也はさきちゃんを「インラン」だと言った。じーのことは「ヒモ」だと言った。その言葉の意味を正しく知らなくても、その言葉の持つ嫌な響きと、攻撃性は知っている。

そして、そういう言葉とは対極にあるようなものを、ふたりは愛していた。

きれいなもの、素敵なもの、見るとじんとするようなもの。

赤ちゃんの手のひらが掴むものだとか、ノラ猫にエサをあげる魚屋のおじさんだとか、バスの中で虹を見つけて歓声をあげる人々だとか、夕方の商店街の匂いだとか、そういうもの。

世界の方がふたりを拒んだとしても、ふたりは世界を愛している。信じている。

それが悔しいのだ。愛しているのに伝わらない、裏切られる。

私の知っているふたりはそれでも良いこともあるよ、っていつも笑っている。何があっても良い法を信じる。絶対に。

女教師のことは完全に無視だった。

私は我を忘れたように泣いていて、涙はいくらだって出てきた。

私は矛盾する世界に泣いた。

でも、私は知っている。ほんとうのこと、きれいなもの、何が正しいかについて。

それを教えてくれたのはさきちゃんだし、じーだ。

私は私なりのやりかたで、世界を信じる。見た目とか、噂とか、そんなんじゃなくて、自分で見て、感じたものを信じる。泣きながら、それだけは心に誓っていた。