例え世界が壊れても、

子供染みた掟の上で、ありふれた愛の歌を歌ってやる。

それで君が笑うなら、

声が枯れてもかまわない。

 

第3話 

 

 

 

なるの病気は目に見えて悪くなっていった。

面会時間ぎりぎりに会いに行くおれを、頼りない笑顔を浮かべて迎えた。

 

 

 

なるは、もうすぐ死ぬ。

 

 

 

「ゆうた、」

おれに気付いて目を開ける。

「あー、起こしちゃった?寝ていいよ。おれ宿題やってるから。」

「うん。」

細い声。細いからだ。

抗生剤の副作用でほとんど飯が食えなくなってしまったなるの身体。

数学の問題集を開くおれを見て、なるは安心したように目をつぶった。

ぱらり。

乾いたページをめくる音が病室に響く。

窓から見える桜は散ってしまった。

季節は確実に流れ、移りゆく。

おれたちの向かうその先は光に満ちているんだろうか。

 

 

 

もう会わないで欲しいと言われたおれとなるの仲を取り持ってくれたのは意外にもばあちゃんだった。

おれは、先週退院したばあちゃんと一緒に、散りゆく桜をカメラに納めるために都内の桜の名所を巡っていた。

散り行く桜は雪のように舞い、春霞におれは顔をしかめた。

なるの、最後になるかもしれない桜。

多分、泣きそうな顔をしていたんだと思う。

このところのおれは、しけた面しかしていない。

おもむろにばあちゃんがおれの頭を殴った。

「いってー。何すんだよ!このばばぁ!」

「まったく、男が情けない面するんじゃないよ!」

だって、

笑えないじゃないか。

殴られた痛みと、得体の知れない悲しみと、訳の分からない憤りとで、情けないことにおれは泣いてしまった。

ばっかじゃねぇの、おれ。何泣いてんだっつうの。

それでも、涙はとめどなく流れた。

だらしなく鼻水まで。

汚ねぇな、おれ。美男子が台無しじゃん。

格好悪いはずなのに、みんなが見ているかもしれないというのに、俺は泣きに泣いた。

もう形振りかまってなんかいられなかった。

そんなおれを、ばあちゃんは「ばかだね、」と笑った。

「平気なふりなんかするからだよ。あたしだってまだ、じいさんの死を受け入れられないんだ。お前みたいなひよっこがわかったようなふりして、強がるからそうなるんだよ。」

言っている内容はすげぇヘビーなのに、声がやさしかった。

「なるのこと、聞いてるよ。つらかったね。」

そう言ってばあちゃんはしわしわの手でおれを撫でた。

さよならだけが人生だ、なんて格好良いこと言ったのは誰だっただろう。

さよならだけの人生に意味なんてあるのか?

別れるために出会う出会いなんて、悲しすぎるんじゃねぇ?

誰でもいい、

誰か、救って欲しかった。

そんな俺にばあちゃんの言葉はきっぱりと潔く刺さった。

「悲しみや痛み、つらさ、そのすべてを乗り越えろとは言わないよ。

それでも悲しみや痛み、つらさを一緒に感じて受け止めてあげなさい。

それがしんどいのなら一緒にいてはいけない、

あんたたちに関わるすべてのひとがかなしい思いをするだろうから。

約束できないならもうなるには関わるな。」

厳しいこと言うなよ、そう思ったけど、

よくよく考えればもっともなことなんだ。

おれは、

覚悟というものがまるっきりできていなかった。

迫り来る死への恐怖、

そしてやがて来る別れへの、それも絶対的に強大な、

別離への、

おれの覚悟。なるの覚悟。

心のどこかで、なるが助かるんじゃないか、

そんな希望とは別の安易な思いがおれの中にあったことを認めざるを得ない。

心のどこかに、

おれとなるのこの日々がただ美しく悲しい物語として、

音のない映画でも観ているような気持ちのおれがいたんだ。

 

おれが来ると、なるは笑う。でもその笑顔は命を削っているかのようなぎりぎりの笑顔。

おれも笑う。

ふたりで笑う。

今ある現実に目を閉じて、

かなしい事実には蓋をして、透明な箱に閉じ込めてしまいたかった。

その箱でなるのためにオルゴールを創ろう。

流れる音楽はどこか哀しくて、子供の頃に聴いた歌のように、胸を締め付ける。

ありふれた、愛の歌。

 

なぁ、なる。

あのころの君は、幸せだったのかな。

あのころのおれ達はしあわせだったのかな。

ふたりで必死でしあわせなふりをしていただけだったんじゃないのかな。

できることなら、マッチ箱のような国で、

君とふたり、

二人だけの国で、いつまでも、手を繋いでいたかったよ。

もう、離れなくてもすむように、

額を付け合って、くすくす笑って、桜吹雪の中。

 

 

 

 

何でなるなんだ。

何でなるなんだ。

死んでしまうのが、

おれが好きなのが、

どうしてなるじゃないとだめなんだ。

おれは学校ではそれなりに人気もあるし、

その気になればいくらでも女の子は選び放題。

まぁ、それは言い過ぎとしても、なるじゃなくてもいい筈なんだ。

かなしい運命になると知っていて、進んでいくおれたちの未来の果てには何があるんだろう。

病院の屋上で一緒に見たあの景色のように、きれいで、遠い、

あんな景色が見えるのかな。

 

 

 

 

「何でなるなんだろう。」

口に出して呟いてみた。

「何が?」

隣のカズヤが言う。

「何でなるじゃないとだめなんだろう。」

「・・・」

飲み込んだコーラは炭酸が抜けて間の抜けた味になってしまっていた。

「おれさ、努力や根性って言葉が嫌いでさ、できれば人生楽して生きたいって思っててさ、」

カズヤは目だけでうん、と頷く。

「自分のできる範囲っつうの?なるべく汗や涙を流さない道を通って行きたいんだ。」

「うん。」

「だって嫌じゃん。泣いたりすんの。」

かなしーじゃん。

「うん。」

カズヤの方が泣きそうな顔をして、

「うん。」

何度も頷いた。

 

 

 

若くて、

幼くて、

行き着く先も知らない、おれ達の恋。

 

 

 

 

「なるがさ、笑うんだ。」

おれが行くたび。

命を削っているかのような彼女の笑顔。

「だからおれも笑うんだけどさ、」

「ほんとうはふたりとも泣きたいって、大きな声で泣きたいって分かっているんだ。」

でも、涙を流してしまったらもう2度と笑えなくなる気がしておれ達は泣けないんだ。

涙を流してしまったら、この恋は間違いだったと、誰かに言われてしまったような、そんな気がしてしまう。

だから、笑っていたかった。

君と出会えたことはすべてのかなしい事実の中で唯一宝石のように透き通った出来事なんだ。

「裕太、」

優しい声でシンジが言う。

「俺は運命論者でもなんでもないけどさ、」

シンジの向こうで光る、おもちゃのような東京タワー。

「なるさんが病気だということより、

裕太が彼女じゃなきゃ駄目だということより、

ふたりが出会って恋をしたっていうことが意味があるんじゃないのかな。」

そんなふたりが恋をしたからこそできること。

その意味を、

 

 

 

 

 

 

病院の帰りに毎日祈った。

なるの病気が治りますように、

なるが死なないですみますように、

どうか、奇跡が起こりますように、

祈りだけで何かを変える事ができるのなら、

医者も警察も必要ないだろう。

それでも、

どうしようもない何かに立ち向かうとき、ひとは祈りを込めるのかもしれない。

 

 

 

 

 

神様、

 

 

 

 

 

なるに対するやさしさやいとしさを、

すべて集めて形に変えて、

見えない何かにぶつけたら、

願い事はかなうような気がしていたんだ。

 

 

 

おれは、

大雨が降ってもげらげら笑っていられない。

笑っていられないからおれ達は、

傘をさしたり、晴れている空の方へ走ったりするんだ。

たとえそれが、無駄な努力だったとしても、

雨もまたよかったね、って笑いあえるように。

 

 

 

 

 

その日、なるは出会った頃のように、元気に笑って、おれを迎え入れた。

桜は、葉桜に変わっていた。

初夏のような陽気で、

青い空の向こうにやがて来る大好きな季節が見え隠れしていた。

病室は白く、明るく、

まるで海のようだった。

「ゆうた、私ゆうたに手紙を書いたの。聞いてくれる?」

にこにこしながらなるは言った。

「読むの?」

「うん。」

「遺言とか言ったら聞かなねーからな。」

冗談半分、本気半分でおれも返す。

「あはは。ちがうちがう。これは、最初で最後のラブレターだよ。」

 

 

 

なるの、最初で最後のラブレターは、真っ白い便箋と青いインクのペンで綴られていた。

「海みたいでしょう?」

なるが言って、

「海みたいだ。」

おれも言った。

そのときおれ達は、

東京のど真ん中にある病院で、

6階の、角にあるなるのちいさな病室で、

窓からは緑に変わった桜並木と大きな川が見えて、

そんな場所にいて、

それなのに、

確かに波の音を聴いていた。

 

 

 

病院を渡る初夏の風が、

透き通るくらい透明な空の青が、

人知れず流したおれたちの涙が、

おれ達のいる場所を、海に変えたのかもしれなかった。

繋がる手のひらから、同じ景色を見て、

君の髪を撫でていく風からは、潮のにおいと、かすかに花の匂いした。

 

おれ達が見ていたのは、

永遠。

いいにおいの風の中で君と出会えて、恋をしたことに、

おれ達は笑った。こころから。

 

 

 

 

君との恋は、天気雨のようにおれの上に降り注ぐ。

一生分笑って、一生分のキスをして、

ふざけあって、じゃれあった、仔犬のように。

それでも、

奇跡は、やっぱり起こらなかった。

 

 







next