ひとさらいに連れて行かれてしまうから。 気を付けて行きなさい。 何故ここへ、と聞かれたら、金木犀の香りに誘われて、と答えよう。 空にはびっくりするほど大きな月が懸かっている。 第1話 ボヤージュ 「ジャン、みてー。おっきい月だねぇ。」 月に向かってうれしそうにそらは言う。 「なんだかゆかいだねー。いいことあるかもー。」 そらはそっと僕の背中を撫でた。 「あぁ、おなかすいたぁ。なんかたべたいなぁ。」 其の先は簡単に想像できる。そらは思い描くんだ。 熱いココアにマシュマロを落とす瞬間。 淡いピンクの皮をむいてたっぷり熟した果実にかぶりつく瞬間。 とろとろにかけられたオムライスの卵をスプーンで開く瞬間。 そして、それらをおなかいっぱい食べている僕ら。 「おなかへったなぁ」 そらは俯いて数えて何度目かの「お腹すいた、」を呟いた。 「おい、」 僕らの頭上で低い声。空耳か? 「おい。」 どうやら空耳じゃないらしい。 「おい、こんなところで寝てると風邪引くぞ。」 先に気が付いたのは僕のほうだった。声の主はそらより少し年上の男。 全身黒い服を着ている。僕は「ママ」の言葉を思い出した。 そうしているうちに隣のそらが目を覚ます。 この男の言うとおり、どうやら僕らは眠っていたらしい。 ううーんと気持ちよさそうに体を伸ばす。 「はぁーこんばんは。」 そらときたらこんな時でものん気に挨拶なんかしてやがる。 「今晩はじゃねぇよ。あんたらこんなとこで何してんの?」 男は俺たちを見下ろす姿勢のまま言った。 「なにって、おつきみ、かなぁ。」 相変わらず空には巨大な月。ばかに大きくてぞっとする。 「はぁ?」 男はばかにしたように笑い、 「何でこんなところで、」と言った。 そらときたらまたもや「なんでだっけなー」と ちがうでしょ、そら。何故ここへ僕らが来たのか言わなくちゃ。 「そうだった。」 何故ここへと聞かれたら、 「きんもくせいのかおりにさそわれて。」 「ところでおにーさんはひとさらい?」 そらは首をかしげて聞く。 「は?あんた頭おかしんじゃねぇの。」 男は何か異質なものを見るような目で僕らを見た。 「なーんだ、ちがうのか。」 期待していただけに心底がっかりした声だった。 「きんもくせいのかおりにさそわれて、ここまできたけど、 そらたちをさらってくれる人はいないんだねぇ。」 そらはとても悲しそうに言った。 それはそれは心から悲しそうに。 でもぐーというお腹の音でかき消された。 「何、あんたたち腹減ってんの?」 ひとさらいではなかった男が目線を落として言った。 目が笑っている。 「うん。へってる。すっごく!」 そらはさっきよりも熱のこもった声で返した。 「来いよ。タダメシ食わしてやっから。」 男はそらの手を取ってそう言った。 「ありがとう。いただきます!」 そらが笑っている。 よかった。 そんなそらの笑顔を見て、 悪くない笑顔だと思った。 暴れてやろうかと思っていたけどおとなしく抱かれたままにして、 居心地がいいように体を丸めた。 男の香りを吸い込む。 夜と、金木犀の香りがすこし、 した。
金木犀の香りに誘われて、僕らは彼方に旅に出た。 空には巨大な満月とぽっかりあいた夜の口。 満月の夜は気を付けて。 ひとさらいに連れて行かれてしまうから。 ひとさらいにさらわれたくて、 僕らは2人で抜け出した。 秋のはじめの晴れた夜。 それは、 ささやかな逃亡劇。 僕ら2人の逃避行。 どうか神様僕たちを、 目を瞑って見逃して。 Back Next |