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春になると溶けてしまう。

あたしは、ゆきうさぎ。

 





ゆきうさぎ













「せんせい。」

まただ。

B、冬野しほこ。名前、覚えてしまった。

ここのところ毎日といってもいい。

彼女は、美術室に日参していた。

「冬野、授業どうした。帰んなさい。」

俺は振り向かないままに言う。彼女の目を見てはいけない。

覗き込むようにして、見つめてくる。

「エー?せんせいに会いに来たのに?」

「休み時間にしてくれ。」

言って、しまった、と感じる。

「休み時間なら、いいの?」

「せんせいそう言った。」

勝利宣言。今のは言葉のあやだ、そう訂正させない強さで、

「お昼休みにくるね。」

そう言い残してばたばたと駆けていく。幼い足音。

俺はコーヒーを淹れるべく立ち上がった。

今の生活を気に入っていた。

美術教師なんて、きままな職業だ。

生徒の進路相談や月に何度かある生活指導を除けば、この部屋は俺の自由に使えたし、

何より公立教師という職業の魅力は安定だ。

好きなときに好きな絵を描くことはできなくなってしまったけど、

其れでもいいと思っていた。

そんなもんだと思っていた。

好きだけで飯は食っていけない。

其れなのに、

彼女は現れた。

俺の生活を脅かすように。

彼女は、

未だ好きだけで生きていける、

そんな若さを持っていた。






 

「せんせーい。」

どんどんとドアをたたく音。

もうこんな時間かよ。

時計の針は12時過ぎをさしていた。

「せんせーい、いないのー?」

ちょうどいい。このまま居ないことにしてしまおう。

鍵をかけておいてよかったと少し前の自分に感謝しつつ、再び夢の世界へ旅立とうとしていた俺を、

がちゃり。

鍵の開く音が襲う。

・・・っ!冬野!」

「なーんだ、いるじゃない。」

にこにこと笑う彼女は俺の動揺にはお構いなしで。

「鍵!何でお前開けれるんだ?」

聞くと子悪魔のような微笑で、

「合鍵、作っちゃった。」

彼女は目の前に銀色の鍵をぶら下げて見せた。

美術準備室の合鍵なんか作るなよ。

「せんせい、あたしお弁当つくってきたの。」

無視。

「作ってきたんだけど、」

更に無視。こいつは無視するのに限る。

「いっしょに食べよー?」

ひきつった笑顔で俺の頬をつねり、ね?と念を押した。

「わかった、わかった。」

俺の負けだよ。

「よかったー。」

ほっとしたように笑う彼女。へぇ、ずいぶんかわいい顔で笑うんだな、はじめてそう感じた。

弁当の中身はオーソドックスにから揚げと玉子焼き。ポテトサラダ。

「はい、せんせい。あーん。」

「するか、自分で食う。」

狭い美術準備室に立ち込めるコーヒーの香り。(一応弁当の礼に俺が淹れてやった)

「しあわせだなー。」

「ばばくせぇやつだな。」

「ばばぁと住んでるからね。」

おばーちゃんとおじーちゃんと、三毛猫と3人と一匹暮らし、彼女はそう言った。

両親のことは聞けなかった、何となく。

「せんせいは?ひとりぐらし?」

「そーだよ。」

杯目を淹れるべく立ち上がる。すぐに彼女も「あたしも。」といってくっついてきた。

「ごはんとかどうしてんの?」

こぽこぽと注がれる熱いお湯。俺の紺と、彼女の赤のマグ。

「適当。作ったり、買ったり、食いに行ったり。」

気をつけろよ、と言い、彼女に手渡す。

「ふーん、そっかー。」

あっ、と言い、目を輝かせる彼女。

「あたし、作りに行ってもいよ!」

ばこん、と音がするほど殴ってやる。

「ったぁ〜。」

「あほか。間に合っています。」

え、と彼女の動きが止まる。俺を見上げる。泣きそうなほど透明な瞳。

「せんせい、かのじょいるの?」

泣きそうなほど、透明で。俺は、

「いないよ。」

思わず嘘を言った。

「よかった〜。」

ずるずると腰を落としほっとしたように笑う彼女。途端に俺を罪悪感が襲う。

不思議なことに其れは恋人へではなく、彼女へ。

嘘を、ついてしまったことへの。

「せんせい、」

透明な透明な、水溜りみたいな、瞳。

「あたし、せんせいのこと、すきですよ。」

知ってたけど。

流石に言葉が出てこない。

「すきだから。甘く見ないでね。」

そう言い残して、ばたばたと走り去っていく。

好きだけで、何とかなると思っている若い彼女。

弁当箱、忘れていきやがった。

俺は、彼女の残して言った弁当箱と、2人分のマグを洗いつつ、

彼女の言い残していった言葉のひとつひとつを反芻していた。

せんせいのこと、すきですよ。

あまくみないでね。

好きだけで世界は何ともならないよ。

そう思いつつも、

突然現れた彼女の存在に、振り回されてる俺も、

未だじゅうぶん若いかもしれない。

ひとりごちて、微笑む俺を透明な青が襲った。



空。






美術準備室から見た空は、痛いほど透明で、

其の青さに溺れそうになりながら、

緩やかに時は過ぎていった。

 

 

 

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