それも遠くない日


 

1ヶ月前に別れた恋人のことを思い出していた。

今私は近所に住む友達に呼び出されて1駅先にある居酒屋に向かっている途中。

居酒屋はモツ煮込みと蛍烏賊の沖漬けがおいしい。その代わり最近ハマっていたチャンジャがない。彼と付き合うまで、私はチャンジャを知らなかった。あんまりにも彼がしつこく勧めるので食べてみたらとても私の好みだったのだ。

「おいしい、おいしい!」と感動すると、「でしょう!きっとふきちゃんは好きだと思ったんだ!」とにこにこしながら言った。細くて長い指なのに、爪が意外と丸いところがとても気に入っていた。

彼の名前はこうじくんと言った。私はこーじくん、と少し間延びした呼び方で呼んでいた。こーじくん、呼ぶと振り返って笑った。背の高い彼が、私の耳に顔を寄せて「何?」と聞くのが嬉しかった。こーじくんは同じ会社の後輩で、2つ年下だったけれど、とてもしっかりしていた。

少なくとも、私の前ではしっかりしていた。あまり隙を見せず、キメ顔をたくさん持っている男の子だった。こーじくんが格好悪いところを、私は見たことがなかった。こーじくんは私のことをふきちゃん、と呼んだ。甘くてやわらかい声をしていた。私はこーじくんに呼んでもらう自分の名前がとても好きだった。自分が、世界でいちばんかわいい女の子になったような気がした。

 1ヶ月前、会社の懇親会でこーじくんが、後輩の女の子とキスをしているのを見た。これから行く居酒屋のすぐ近くの奥まった路地で、私は急にいなくなってしまったこーじくんを探していた。こーじくんは酔っ払っていた。女の子も酔っ払っていた。ふたりは酔っ払いながらもつれ合って、くすくす笑いながらキスを繰り返していた。何度も、何度も。

 酔っ払った、ちっとも格好良くないこーじくんを見ながら、私はああそうか、と納得していた。納得していたのに、涙は出ていた。こころの何処かでほっとしながら、それでも涙は流れていた。

「結局、自分にとって都合の良い恋をしていただけだったのかも」

私は、芋焼酎のお湯割りを啜りながら言った。

「は?何の話?」

「いやいや、自分の話」

私は無事、件の居酒屋に到着し、モツ煮込みと蛍烏賊の沖漬けをばっちり頼んで(その他にも串焼きの盛り合わせとか秋刀魚の刺身とかいろいろ)年上の男友達たちと飲んでいた。男友達そのいちの太郎ちゃんは私の真似をして芋焼酎を水割りで飲んでいたけれど、そもそも太郎ちゃんはお酒が弱いので多分、すぐ潰れると思う。

 男友達そのにのひーさんは、奥さんで、私も友達のアキちゃんに電話を入れている。結構遊び歩くくせにマメなのだ。

 ひーさんにも太郎ちゃんにも決まった人がいる。決まった人がいる男の人と遊ぶのは安心。好きになる可能性もなられる可能性も少ない方が今の私にはちょうど良い。

「そう言えばお前、仕事辞めたんだって?」

ひーさんがホッケの身をほぐしながら言った。ひーさんは魚の食べ方がへたくそだ。

「うん。まぁ、いろいろあって・・・」

「そうなの?こんな中途半端なときに辞めるなんてお前、ガッツあんな!」

太郎ちゃんがげらげら笑って言った。太郎ちゃんは酔うとすぐに笑う。辞めたくて辞めたわけじゃなくて勢いだよ、と思ったけれど黙っておいた。自分でも浅はかだと思っていたから。

「で?どうすんの、これから」

「うん。しばらくは貯金もあるし、ボーナスも残ってるしね」

力なく笑うと、「行き当たりばったりで人生決めんなよ〜」とまたもや太郎ちゃんに笑われた。まさにその通りなので反論できない。

「まぁ、焦らずに探せば良いじゃん。この機会にやりたいことやれば?」

ひーさんは年長者らしくそう言った。忘れていたけれど、30歳だった。ひーさんは。

 私は頷いて芋焼酎を飲んだ。甘くて、飲むと喉のあたりがかぁっとなった。少しだけふわふわしながら、ひーさんのTシャツの柄のインド象の顔をじっと見ていた。きりっと冴えたいい目をしていた。

 お勘定をきっちり割り勘にして、電車がなくなる頃に私たちは店を出た。みんな近所なので時間を気にせず飲めるところが良い。太郎ちゃんは酔っ払いながら一緒に住んでいる彼女に連絡していた。「おー、俺―。寝てた?今から帰るよー」しっかり喋っているのに、足元がふらふらしているのがおかしかった。ひーさんと私は酔い覚ましにコーヒーを買って飲んでいた。火照った頬に風が涼しかった。

「今度鍋でもするか」

ひーさんが言った。とてもやさしい言い方だったのでうっかり泣きそうになったけれど、こらえた。大体何の涙なのかわからない。「な?」と同意を求めるように言うので頷いた。まるで慰められているようだった。そう思うと少し悔しかったので、またもやインド象ばかり見ていた。ひーさんの声をしたインド象が「すき焼きでもいいな。肉ないけど」と言ったので、私は笑った。

 帰り道、こーじくんがキスしていた路地をこっそり覗いた。何てことない、単なる薄汚れた路地だった。真っ暗闇の中に、でぶのトラ猫が1匹いるだけの単なる路地。酔っ払った太郎ちゃんに合わせて歌を歌いながら家に帰った。

 仕事もない、彼氏もない、もうそんなに若くもない。それでもこんな風に一緒にごはんを食べる友だちがいる。調子ハズレの歌を大きな声で歌えるくらい、私は元気。