10.迷子

 

翌朝、目が覚めると当たり前のようにじーがいて、居間でコーヒーを飲んでいた。

「おはよう。きのうはごめんね」

にこにこ笑ってそんなことを言う無神経さに本気で腹が立った。

「どこ行ってたの?ずっと待ってたんだよ」

わずかに震える声で私は言った。

「ごめん、ごめん。友だちのクリスマスライブ。打ち上げしてたら電車なくなっちゃった」

今までも何回かそういうことはあった。じーの友だちは生活が不規則で、しかもみんな面白いように酒好きだ。

歌うたいはみんなこうなのだろうか、と良く思った。

愛しい、だめな大人たち。

でもその時は彼らに対して憎しみしか抱けなかった。

悔しい、腹が立つ、バカみたい。

だからそう言った。

クッションやタオルやそこら辺にあるものをみんな手当たり次第投げつけた。

本気でじーが嫌いになりそうだった。

「何で?約束したじゃん。クリスマスは一緒に居てくれるって、そう言ったじゃん。どうして、」

どうして大人は裏切るの、

最後の言葉は言えなかった。代わりに涙があふれた。次から次に。止まることなく。

「みゃあ、」

「もういいよ。じーなんて信じない。じーのばか。裏切り者。じーなんて大きらい」

私がそう叫んだ時だった。ばしんと音がして、ほっぺたがかぁっと熱を持った。

見上げた先にはさきちゃんがいた。

私たちのやりとりを黙って聞いていたさきちゃんが、私と同じ気持ちであるはずのさきちゃんが、ものすごく怒って、そしてとても哀しそうな顔をして、私を見ていた。

「いい加減にしなさい。実愛。自分がどんなにひどいことを言ったか分かってるの?」

きちんと発せられた自分の名前を聞いて、私はさきちゃんの本気さを知った。

さきちゃんが呼ぶ私の名前には何か逆らえない、強さのようなものを感じる。

思わず身体が固まる。条件反射みたいに。でも、私はひるまなかった。昨日の件に関しては、さきちゃんも同じ気持ちだと信じていた。

「何で、」

悔しいのと悲しいので声が震えた。

何でさきちゃんまでじーの味方をするの、

気が付いたらアトリエを飛び出していた。

私は走った。悲しくて、悲しくて、頭がきーんとなった。

とてもひとりぼっちな気がしていた。

きっと、こういう気持ちを絶望と呼ぶんだ、血が上った頭で私は考えていた。

 

 

クリスマスの朝の町を、私はひたすら走った。とりあえず、走ることが今できることのすべてで、自分のもやもやとした気持ちを振り払うために、私は走った。

私には、こういうときに行く場所がひとつもなかった。

数少ない友だちの家に行くには、時間が早すぎたし、第一、今日はクリスマスなのだ。

きっと行ったところでマッチ売りの少女のような、惨めなきもちになるのは目に見えていた。とりあえず、遠くへ行くことだけ考えた。思い知らせたかった。

じーに対しても、さきちゃんに対しても。

家を出る、ということでしか、私は私の感情を表せない。所詮は子どもなんだけど、子どものできることって本当に限られているのだ。

はぁ、と一息つくと湯気みたいに白い息が出た。

 

公園の空気は澄んでいた。クリスマスや、お正月や、特別な日の朝がみんなそうであるように、世界がしんと静まり返ってとても厳粛なきもちになった。立ち止まったらわあわあ泣いてしまいそうだと思っていたけれど、案外きもちは静まっていた。走っている間に発散されてしまったらしい。あまりにも建設的な自分の身体にちょっと笑った。

私はブランコを小さくこぎながら、これからのことを考えた。

飛び出したところで行くあてなんかなかったのだけど、今すぐには帰れない。

ちえちゃんのところに行こうかどうしようか迷った。

ちえちゃんなら、きっと笑顔で迎えてくれることも知っていた。

でも、その後に必ずさきちゃんに連絡を入れるだろうということも知っていた。

ちえちゃんは、私の友達でもあるけれど、さきちゃんの友達でもある。仮にちえちゃんが連絡を入れなくても、さきちゃんには簡単にバレてしまうであろうということも予想できた。私が行ける場所なんて限られているし、私の交友関係について、さきちゃんはきちんと把握している。

すでに行き詰ってしまった……

どんよりとうな垂れていると、公園の入り口から3歳くらいの女の子と、その子の両親らしい人たちが笑いながら入ってくるのが見えた。女の子は真っ赤な洋服を着ていた。今日この日のためにあしらえたような洋服だった。

女の子はうれしそうにはしゃいでいて、とても幸せそうに見えた。

女の子を見守るお父さんとお母さんもにこにことしていて、これが幸せな家庭の図です、って太鼓判が押されているような感じだ。

今の私にとっては恨めしい以外の何者でもない図だけど、その図は、私にずっと昔のクリスマスのことを思い出させた。

こころの底の部分にひっそりと眠っていた思い出がぼんやりと目を覚ましたように、そういえば、という感じで思い出した。

私が、あの子と同じくらい小さかった頃のクリスマスだ。

手のひらが、ごつごつと大きな男の人の手の感触を覚えている。私はその人と手を繋いでクリスマスの町を歩いていた。さきちゃんが、私の前を歩いていて、ほかほかと湯気の出る大きな肉まんを買っていた。私とその人は立ち止まって、さきちゃんの買い物が終わるのを待っていた。その人の手はひんやりとしていて、銀の大きな腕時計が側でカチカチと時間を告げていた。

「実愛はお母さんと半分こしなさい」

とてもじゃないけど、ひとりじゃ食べきれない量の大きさの肉まんを見て、その人は言った。私はちょっと悔しくなって、

「ぜんぶ食べる」

と言った。食べ物を全部食べたときだけ、手放しで誉められていたので、その時もチャンスだと思ったのだ。自信満々にそう言うと、その人は笑った。心に響くような低い笑い声だった。

「実愛はくいしんぼうだな」

そう言って、私の頭を撫でた。さらさらと滑るように、やさしく。

その後、案の定全部食べ切れなかった私は半分以上をさきちゃんに渡して、肉まんをもぐもぐ食べているその人の口元を見ていた。赤い鳥居のようなキラキラした建物のすぐ側のちょっとしたスペースに座って、私はその人の太ももの上にほおづえを付いて、あたたかな温度を感じていた。肉まんの匂いと、枯れ葉のような乾いた匂いが混ざって、ほかほかと眠くなりそうだった。「まだ食べたいのか?」その人が聞いて、私は首を振った。

ずっと見ていたかった。そこから。

そこから見る世界は安心と幸福に満ち溢れていた。

さきちゃんはずっと嬉しそうに笑っていた。白いモヘアのマフラーをしていた。これから家に帰って、クリスマスのパーティーが待っていて、私は欲しかったおもちゃを買ってもらえる、幸せなことしか起こらない冬の日。そろそろと夜が降りてきて、街頭の店がキラキラと輝きだす。色とりどりのお祭りのような光。威勢の良い掛け声と、おいしそうなごはんの匂い。あれは、どこの町だっただろう。行きかう人々がみんなにこにこ笑っていて、日本じゃない、外国みたいな町で、にぎやかな音楽がずっと流れていた。「あしたもクリスマスくる?」私が聞いてふたりが笑った。こういう日が毎日続けば良いと思った。みんながしあわせに過ごせる日なら、どうして毎日クリスマスじゃないのか不思議だった。「ずっと今日みたいな日が続けば良いのにね」さきちゃんが言ったひとことに、その人はすこし悲しそうな顔をした。

どこにもいかないで、

ふいにそう、強く思って、私はその人の太ももに顔を押し付けた。眠くないのに寝たふりをしていると「疲れたのかな」とその人が言って、私を大きな背中に負ぶさった。いい匂いがするのと温かかったのとで、本格的に眠ってしまった。それでも、とても幸せだったのを覚えている。

 

あれは、いつの記憶だっただろう。

思い出して、私は、どうしてクリスマスシーズンに父親が欲しくなるのか分かった気がした。

 

きっと、あれはお父さんだ。

私の、はじめてのお父さんの記憶だ。

 

その思い出が、自分が生み出した哀しい想像じゃないことを証明するために、記憶の中の町をぎゅっと目をつぶって思い出そうとした。

確かに、知っている。行ったことがある。そう遠くない昔だ。身体が覚えてる。

私は身を固くして一生懸命考えた。自分の頭の引き出しをひとつひとつ開けるような気持ちで、意識をそこに集中した。

確か、近くに海があった。

潮の匂いがふわんと漂ってきそうになるまで意識を集中させたときに、ふっと、思い出した。あぁ、あそこはきっと横浜だ。横浜の中華街だ。行ったのはあの1度っきりだったけど、何度かテレビで見たことがある。そう思うと、強く確信をもって感じられた。そうだ、あのクリスマスの日、ちょっと遠出しようということになり、車で横浜まで行ったのだった。

一度思い出すとあれよあれよという間に、中華街に行くまでの細かいいきさつまで思い出してきた。たしか、さきちゃんが「アジアのクリスマスってどんなかなぁ」と、今思えば自分だってアジアの端っこの国の住人のくせに言い出し、ロマンチックだし、港もあるし、飽きたら観覧車にも乗れるし一日遊べるという理由で行くことになったんだった。

結局どこも混んでいてくたくたになっただけだっただけど、夜を待つ、その中華街の何でもないシーンだけは鮮明に覚えている。きっと、行ったメンバー全員が同じきもちになった瞬間だったからだ。やさしくて、あたたかで、祈りみたいに強くじゃなくても、それぞれがぼんやりと希望のように願った。

ずっとこのままでいられますように。

こころの何処かで、そうはいかないことを知っていたかのような、お互いの儚い願いだった。

思い出したことで、あたたかなきもちになったのと同じくらい、淋しいきもちになって、ほんの少しだけ私は泣いた。