9.ポラリス

さきちゃんはお酒が好きだ。好きだし、強い。相当飲む。

なので、アトリエには大抵のお酒が揃っている。

ジン、ウォッカ、リキュール、ワイン、焼酎、日本酒、泡盛。

アトリエに来る人は皆さきちゃんのお酒好きを知っているので、手土産は大抵お酒になる。

お酒と、チョコレート。

お酒はさきちゃんの好物で、チョコレートは私の好物だ。

さきちゃんは強くて辛いお酒が好きで、私はミルクチョコレートが好き。

毎月25日には私たちはそれぞれ、好きなものを好きなだけ食べることにしている。

なぜ、25日かというと、その日がさきちゃんの毎月のお給料日だからだ。

私たちの習慣に習ってじーも25日にはお酒とチョコレートを買ってくるようになった。

甘いもの好きのじーはどちらも好物だ。

なので、24日がクリスマスイブの今月はちょっとしたお祭りのようだ。

12月に入ってすぐに、私たちは準備に取り掛かった。

にしても、年頃の男の子のじーにクリスマスの予定がないわけがないと思い、あまり期待しすぎないようにしていた。けれども、いつになってもそんな素振りが見られないので、

「じーって恋人いないの?」

と聞いてみた。

浮かれてクリスマスの飾り付けをしながら、じーの口笛はウィンターワンダーランドだったと思う。

じーは、そんなばかな…という顔をした。

「言っておくけど、音楽が恋人ってのはなしね」

「……」

私に打つ手を封じられ、じーは本気で困っていた。

子ども相手に…ばかなやつ…。

「じーってさ、何気に格好良いし、背、高いし、おしゃれだし、センス良いし、モテそうなんだもん。いないの?恋人の1人や2人…」

「お前の男の趣味が大変素晴らしいのは分かったけどさ、」

何気に自分を褒めている。おめでたい男め。

「いたらこんなにウキウキ飾りつけしないでしょう。普通にお前たちと過ごす予定だっつうの」

「そうなの?」

「そのつもりだったよ」

「本当に?」

「うん。」

「でも…」

「しつこいな!本人が言ってるんだから信じようよ!」

この手のことに関して私はすっかり疑り深い子どもになっていた。ぬか喜びするのが嫌なのだ。

空しいし、悲しい。

それでも、じーのしつこい説得のお陰でようやく信じる気になってきた。

そうとなると、準備に対する気合も俄然違ってくる。

そのことも手伝ってか、クリスマスシーズンの最初の頃のように、いもしない父親の幻想を抱くことは減っていた。

今年は、じーがいてくれる。

2人きりじゃない。

誰かと過ごすクリスマスの素晴らしさは、私だって知っている。

側にいてくれるという安心。

その、あたたかさ。

苦手な学校も冬休みに入ることが祭りに拍車をかけた。

じーが、ギターでクリスマスソングを弾いてくれ、私たちは良く歌った。

お風呂場で、縁側で、キッチンで、さきちゃんを待つ駅のロータリーで。

今年のクリスマスは最高のものになる予定だった。

そう、予定だった。

その日、

厚い雲が空を覆う、どんよりと曇った、クリスマスイブ。

朝から雪を待つような寒さで、ちえちゃんにもらったストールを首に巻いた。

終業式が終わったその足で、仕事を休みにしたさきちゃんと待ち合わせて買出しに行った。

赤いランドセルから取り出した通知表を見て、さきちゃんは「今学期もよくがんばったね。」と笑って言った。私の成績は学業以前に、素行云々で決してにこにこして眺められるものではないのだけれど。

私の小さなてのひらに、さきちゃんは指を絡ませた。

さきちゃんの左手の細い指、銀の指輪。末端冷え性のさきちゃんはいつも寒そうにしている。

私の小さなてのひらの熱がどうか、さきちゃんを温めますように。

見上げた先ににっこり笑う、さきちゃんの顔があった。

 

私たちは、家で作るのは面倒臭いという理由から、近くにあるフランスの家庭料理を出す店でお惣菜を選ぶことにした。

「その代わり、ケーキはちゃんと作ろうね。」

さきちゃんが歯を見せて笑う。私は頷いた。

キッシュ、ラタトゥユ、ひよこ豆のサラダなど、行きつけの小さな店のショーウインドウを見ながら次々に選んでいく。今年は3人分なので、少し多め。

「つむじくんはナスが好きじゃないから、ラタトゥユは2人分でいいね。」

「ナス、おいしいのにね。」

なんて言いあいながら量も考えた。大好きな相手を考えながらする買い物は好きだ。

「チキンはどうする?」

これは、さきちゃんが毎年する質門で、というのも大きなローストチキンは買っても2人で食べきれた試しがないからだ。なのでここ2、3年はチキンは1本ずつになっているのを買っていた。

でも、今年はじーがいてくれるのでそんなものぺろりと食べてしまうだろう。

「もちろん、買う。ちゃんと大きいやつ。」

「だね。」

さきちゃんは笑って言って、店のおじさんにローストチキンを追加で頼んでいた。

帰る家があって、待っていてくれる誰かがいて、自分のことを好きな人がいる、ということはとても幸福なことだと思う。

私たちはまちがいなく、その日最高に幸福な2人組みだった。

外から見るアトリエがじんと光って見えた。シチューのCMに出てくる家みたいに。

 

 

けれど、その日じーは帰ってこなかった。

買ってきたお惣菜を盛り付け、シャンパングラスを冷やし、ブッシュ・ド・ノエルを本格的に焼いて飾り付けをし、さきちゃんが店長にクリスマスプレゼントでもらったポインセチアも玄関先に置いた。

極め付けに、私が学校の図工の時間に作った不細工なクリスマスリースまで飾って、準備は万端だったというのに。

それなのに、約束の時間を過ぎてもじーは帰ってくることはなかった。

じーは何かあったら必ず連絡を入れてくれるので、さきちゃんは携帯を何度も確認した。こちらからも何度もかけてみた。繋がるのは機械的な女の人の声で、じーが今電波の届かない所にいることを告げるだけだった。

電波の届かない所。

さきちゃんは繋がらない携帯に何度目かのため息をついた。

「電波の届かない所、なんてあいつ北極にでも行ってるのかな。」

「何しに、」

「みゃあのためにサンタを探しに、とか。」

私を慰めるためにそういうことを口にしているのなら拗ねてやろうかと思ったけれど、違った。

さきちゃんはさきちゃんを慰めるために言葉を探している。多分。

「北極より、遠いところだよ。きっと。」

「そう?」

「うん。北極星くらい、遠い。」

「あはは。それじゃぁ、電波届かなくて当然だ。」

北極星で何をしているんだろう、じー。

早く帰ってくれば良いのに。さきちゃんの好きなからいお酒と、私の好きなチョコレートと、赤いマルボロをどっさり買って。

「食べようか、」

あきらめたのではない。

労わるようにさきちゃんが言って、私は頷いた。

こういう時のさきちゃんの切換えの速さはすごい。事実を静かに受け入れる。飲みすぎたり、食べ過ぎたりもせず、浮かれたり落ち込んだりもしない。ただ、必要以上に私にやさしい。そして、そのことが私をうんと淋しくさせることを、さきちゃんは知らない。

2人だけのクリスマスパーティ。

静かで、穏やかで、期待しすぎることのない、私たちの生活。

結局、今年も、ローストチキンは食べ切れなかった。