2.クレヨンの月



じーがはじめてアトリエに来た日のことはよく覚えている。

夏の終わりの夕方だった。暑くて、台風ばかりがやたら来る、そんな夏だった。

私は雑草だらけの縁側で猫のジャン・レノと遊んでいた。ジャン・レノの名前はさきちゃんが付けた。

ちょうどふたりで『レオン』を観ているときで、さきちゃんは「外人のハゲは許せるよね」とばかなことを言っていた。台風の日、さきちゃんが拾ってきた子猫が、私の膝の上で丸まって眠っていた。子猫は頭のてっぺんに小さなハゲがあった。今もある。

「この子、ジャン・レノみたいに渋いハゲがあるね」さきちゃんは言って、同意を求めるように私を見た。私は頷いた。そしてその時からハゲた子猫はジャン・レノになった。ジャン・レノと名付けられた子猫は心なしか渋く見えた。メスなのに。

そんな由来を持つジャン・レノと私は伸びすぎた猫じゃらしで遊んでいた。猫じゃらしの名前を付けた人はすごいと思う。本当にじゃれるもん。猫が。

一日はまさに終わろうとしていた。トンボがすいすいと気持ちよさそうに空を泳ぎ、私はもう秋だなあと思っていた。

子どもでも感傷的なきもちになるらしい。ゴージャスな色した雲が、どんどん西へ流れていく。一日のフィナーレ。

じーは門を開けてさきちゃんと一緒に入ってきた。さきちゃんが友達を連れて帰ってくることは良くあることなので、私はまたか、と思いつつ一応門の方に目をやった。

じーは背が高かった。見上げるくらい高くて、蜜色の髪が夕日に照らされてきらきら光った。一瞬外人さんかと思ったほどだ。

ジャン・レノがびっくりして身を固くした。

「こんにちは。」

じーは言った。とても礼儀正しく、私が子どもだからって必要以上に声のトーンを上げたりしなかった。

私はじーを気に入った。一目で。一瞬で。

「さゆきちゃんの友達でつむじと言います。よろしく。」

じーはそう言って笑った。長い前髪で瞳が見づらかったのが残念だけど、差し出してくれた大きな手はあたたかかった。

「駅前で拾って友達になったの。これからしばらくうちに置いてあげる事にしたいんだけど、いい?」

さきちゃんはとりあえず何でも私に相談する。小さなことから大きなことまで。さきちゃんは唯一の家族である私の意見を尊重する。

「いいよ。」

私は言った。そして、私がそう言うことを、さきちゃんは知っていたと思う。自信たっぷりに笑って、

「それじゃあ、今日は歓迎のパーティだね。」

と言った。

「さきちゃんはすぐ飲みたがる。」

「さゆきちゃんは飲む理由が欲しいだけじゃん。」

私とじーが同じようなことを言って、さきちゃんは少しむっとしながら、「そうかな、」と言った。私は密かにコイツとは気が合うかもしれない、とワクワクしていた。

豪華な色の競演が終わり、静かに夜が訪れようとしていた。

そろそろと顔を出したお月様が、ぴかぴかやさしく光っていた。

じーの髪の毛みたいに。

 

じーがアトリエにやって来て嬉しかったことのひとつに、夜をひとりで過ごさなくてよくなった、ということがある。

夜。

それは、恐怖だった。とくにさきちゃんの居ない夜。

巨大で全てを覆い隠し、飲み込んでしまうような夜には、いろんなことを考えた。

小さな豆電球の灯りは、生と死や、天国や地獄の在り処、今まで自分のしてきた良いことや悪いこと、これからのこと、今までのこと、明日のことをとめどなく考えさせる。

そんな時に救急車のサイレンなんて聞こえてきたら、さきちゃんに何かあったらどうしようと考える。そんなことをしていると、私は夜に飲み込まれ、ますます眠れなくなる。

月、水、金の夜、さきちゃんは働きに出る。

知り合いの(タクロウさんという人でこの人もアトリエに住んでいたことがある)やっているバーで、ホステスさんじゃないけど、ちょっと水商売のようなことをしている。

だからそういう日の夕方は切なかった。夜が来るのが嫌だった。

さきちゃんを見送るということ。

夜の仕事をするとき、さきちゃんは、何ていうか女の人みたいになるから。

知らない女のひと。

いい匂いのするきれいなさきちゃんよりも、普段のすっぴんのさきちゃんの方がずっと好きだ。私は。

じーが来てからは夜が一人きりのものじゃなくなった。

さきちゃんが居ない夜、私たちはうんと身体に悪いものを食べたりする。

ジャンクなもの。マックとか、コンビにのお弁当とか。とにかく手作り以外のもの。さきちゃんは意外と私の健康には気を使うので、そういったものを嫌うのだ。

さきちゃんの居ない夜に、じーとふたりでこっそり悪いこと(?)をするのはスリリング。

バレて怒られるのは大人のじーだし。

金曜日の夜は次の日が休みなので、さきちゃんを迎えに行くこともある。夜の散歩。

夜の散歩も私はじーに教わった。夜の散歩は昼間のそれより全然おもしろい。

同じ道も全く違う顔になる。それに歩いている人の種類もバラバラ。

酔っ払ったおじさんや、はしゃいだ若者、ストイックに走り続ける人、犬を散歩させている人(じーは大好きで必ず犬に話しかける)などなど。夜に生きる人は様々だ。

アトリエから駅までの道を、手を繋いで歩く。

じーは貧乏なくせに、私に気を使ってあたたかい飲み物を買ってくれる。

「みゃあはホットココア。俺はホットコーヒー。」

コーヒーを飲んじゃいけない(さきちゃんが怒る)私は、いつもココアかミルクティーだ。

じーはコーヒーを飲みながら煙草を吸う。マルボロの赤。赤マルっていうんだよ、と教えてくれた。

さきちゃんは煙草を吸うひとが本当は好きじゃないのに、今でも赤マルだけは許している。

煙草を吸うときのじーの手の感じが好きだと言っていた。じーの手の甲の静けさ。

秋の夜に、じーの吸う煙草はよく似合った。

それはとても。

 

夜の仕事から帰ってくるさきちゃん、町の中で見るさきちゃんはとても小さく見える。

小さくて、いじらしくて、けなげで。でも強く見える。凛として、ちゃんとしている大人みたいに。

私たちを見つけると、子どもみたいに喜んで大きく手を振る。

まず、私に駆け寄って「ただいま。」と言う。きちんと身を屈めて、目線を合わせて。そのあと、じーに向かって同じ言葉を言う。

「実愛をありがとう。」

私の名前をきちんと発音して。

じーは「どういたしまして。」と笑う。それから「おつかれさま。」と言う。

じーの「おつかれさま。」は軽くなくて、何ていうか言葉がちゃんとそのままの意味を持つ。

さきちゃんは笑って私たちは歩き出す。

車道側からじー、私、さきちゃんの順。余談だけど、歩く時、じーは必ず車道側を歩く。危なくない道でも「危ないよ。」と言って私たちを内側にする。歩く位置まで決められるのが私はしゃくだけど、さきちゃんは嬉しそうにする。

「守ってもらうのって嬉しい。いいきもちがするしね。」

そう言って笑う。そのせいか、車道側を歩いてくれない男の人は嫌う。「分かってない」と罵る。

集団下校の時に、男の子が車道側を歩いたりしないので、いつからじーはそうするようになったのか聞くと、「男は生まれつき女の子を守るように出来てるの。」としかめつらして答えた。

ホレたかな、と思ってさきちゃんを見ると、しらけていて、あとからこっそり「ホスト稼業の賜物だって。あれは後づきでしょ。」と教えてくれた。納得。あのレディーファーストな精神が生まれつきだったらちょっと嫌だ。

 

そんな感じで帰るから金曜の夜は好きだ。

週末の浮かれた感じ、きらきら光るネオン。

そのままラーメンを食べに行ったり、カラオケに行ったりもした。

でも、ただ三人で歩いて同じ家に帰るのがいちばん好きだった。

手を繋いで、しりとりをしながら、途中、私をふたりが持ち上げたり、じーが肩車をしたりしながら、まるでインスタントな家族みたいに。

じーの肩から見る月は触れそうなほど近くて、望めばなんでも叶えられるような気がしていた。