3.

結局、「雪のひとひら」は読まずに返してしまった。

いい話だというので読んでみようとチャレンジしてみたけど、
もともと活字がそんなに得意ではないあたしはすぐに挫折してしまったのだ。

でも、いい話だと思う。

なぜなら、内容はらんくんが教えてくれたから。

らんくんはお話が好きだ。というか、

らんくんはこの世の中の創作物の全てを、と言ってもいいくらい愛していた。

本も、映画も、音楽も、絵画も。

ありとあらゆる、創られたもの。

「ツクリモノだよ?」

あたしがいうと、らんくんは満面の笑みで同じように返した。

「うん、つくりものだよ!」

それが、好きだと。はじめて自分で自分の名前を言うことのできたこどものように、

堂々と。

それが好きだと、らんくんは言った。

「ちっちゃな人間の頭のなかにああいうものがうじょうじょつまってると考えると、わくわくする!」

「・・・うじょうじょ・・・って。」

「変?」

「や、何かきもいよ、その表現は。」

「そ?なはは。」

らんくんは時々文法がおかしかったり言葉が幼かったりして、それがますますらんくんを年齢不詳にさせていた。

らんくんは中等科の生徒でも高等科の生徒でもなく、ましてや大学生でも小学生でもなくて、

けっこう、や、かなり謎の人なんだけど、あたし的にはま、いっかという感じだった。

らんくんのことで判っているということと言えばうちの学校の図書館で司書のオネーサンの手伝いをしていることぐらいで、

家はどこ、とか。年はいくつ、とか、学校はどうした、とか。

ほんというと知りたいことだらけだったんだけど、

ま、いっか。

とあたしは流した。

らんくんが何者か、なんてどうでもいいこと、というのは嘘で。

そういうことを聞いてらんくんが離れていったら、と思うとそっちの方が嫌だった。

だって、語りたくないから語っていないわけで。

そういう謎の部分を突き詰めていったら嫌われるかもしれないし。

それに、いつか判るときが来るまでそっとしておいてもいい気がしたし。

そういうことはいつからんくんが言いたくなったときに聞いてあげよう、なんてね。

ほんとうはただ怖かっただけ。

 

 

 

 

「ミドリ!!すっげーいい本読んだ!」

「ミドリ、この映画知ってる?」

「ミドリ、」「ミドリ、」

 

 

 

 

 

他の人からどう見えるのかなんて知らない。

ただ、あたしはうれしかった。

高校という名の孤独な戦場に咲いた一輪の花、らんくんのことを文学的に例えて言うならそれで、

ぶっちゃけていうと、らんくんがいてくれることであたしはいちばん嫌いな昼休みから救われた。

大きな瞳に黄色の髪のらんくんは年齢不詳ながらけっこう人気があって、

そういう人と知り合いというのは気持ちがいいことだ。

あたしは、らんくんと仲良くなることで、この学校における自分の位置の向上を図ろうとしていた。

らんくんというステイタスでみんなにあたしを認めさせようとしていた。

多分。無意識のうちに。

 

 

 

 

あの焼き芋の一見以来らんくんとあたしは高校が終わるとそれとなくいっしょに帰るようになっていた。
(らんくんの仕事もその時間に終わる)

絨毯のように敷き詰められている銀杏並木が、らんくんとあたしの帰り道で、

時には公園に寄ったり、いつかのように焼き芋を食べたりした。(もちろん奢ってあげたのはあの後一回だけ)

その日、らんくんとあたしは高校からじゃんけんをしながら遊歩道の黒いタイルだけを踏んで進む、というやつをやっていた。

「じゃーんけーんぽん!」

「ぐ、り、こ!」

「じゃーんけーんぽん!」

「あーいこーでしょ!」

「ぱ、い、な、つ、ぷ、る!」

あたしは『つ』のとこでらんくんを追い越して先に公園のベンチに着いた。

「あたしの勝っち〜!!今日の奢りはらんくんに決定!!

らんくんは「ちぇ〜。」と舌打ちをしてそれからすっかり顔なじみになった芋屋のおっちゃんに
100円まけてもらった芋を1つ抱えて戻ってきた。

「ミドリ、俺びんぼう。だから今日半分こな!」

そう言ってけっこう大きい芋を2つに割る。あぁ、らんくんの髪のような色の芋よ。

「けっ。らんくんの甲斐性なし!」

「何と!それはどーゆー意味だ?」

「不甲斐ないっていうのよ!」

「ミドリ物知りだなぁ!」

まったくらんくんと喋っていると頭の中までが芋になっていくような気分だよ。

あたしたちは決してあったかいとはいえない公園のベンチで2人、芋を半分こに分け合って、

気持ちだけは芋に負けないくらいあたたかかったと思う。何か芋のことばっか考えてるな、今日。

そうくだらない物思いにふけっていたときだった。

「コーさん!」

隣にいたらんくんがうれしそうな声を上げて立ち上がった。

 

 

 

その人のことは、知っていた。

下校時刻のこの時間に、よく公園で見かける人だった。

車椅子に乗っていて、瞳を空中に漂わせて、年齢はきっと20代半ばという感じの男の人。

誰が見ても、精神障害の人だとわかった。

だいたい介助の人が付き添っていたけど、近所に住んでるらしいその人は今日のように時折ひとりで公園に現れたりした。

その人がひとりで現れると皆露骨にはしないまでもそれとなく場所を変えたり、早々に立ち去ったりしていた。

一度なんか小学生に石をぶつけられているのを見た事がある。

そういう時、あたしは何となく見てはいけないものを見てしまったような気分になって、

その光景を見なかったことにして通り過ぎた。

幾度となく。

 

 

その人にらんくんは駆け寄る。

車椅子のその人は、今日も一人で、らんくんに気が付くとくしゃっと顔を歪めた。

きっと、多分、うれしくて。

「ミドリ、コーさん。コーさん、ミドリ。」

交互に紹介をして、らんくんは満足そうに微笑む。

「こんにちは。」

一応、というのにふさわしいあたしの硬い挨拶にその人は、言葉にならないような声を返した。

多分、「こんにちは」と言ったのだとわかった。多分というのは発音が曖昧でニュアンスであたしが感じ取った結果だから。

「コーさん、焼き芋食べる?すげぇうまいんだよ。」

ジェスチャーで遠慮する素振りのコーさんに半ば押し付けるようにもともと半分の芋をさらに半分に割ってらんくんは渡す。

まだあたたかみの残る芋を受け取って、それでも彼がうれしそうだということが伝わってきた。

らんくんは照れたようにへへへ、と笑っている。

あたしは、何だかあんまりいい気分じゃなかった。

ほんというとムカムカしていた。

何に、何で、そんなことはわからないんだけど。

気分が悪かった。

成立しているとは言い難い会話なのにらんくんはべらべらと一方的にいろんなことを喋り、コーさんはそれに相槌をうっている。

何となくだらしない感じの相槌に見えるのはコーさんの動きが精神障害者特有のそれだったからか。

黄色の髪の男子学生(?)、車椅子の精神障害者、それに女子高校生、という一見異質な組み合わせの三人はあきらかにまわりから浮いていた。

通りすがりの人たちがじろじろと不躾な視線を投げかけてくる。

好奇の眼。憐れむような眼。トーンを落とした周りの会話。

その全てがあたしにはいたたまれなかった。

「・・・リ、・・・ミドリ。」

苦痛に耐え忍ぶようにその場に立ち竦んでいたあたしはしばらくらんくんに呼ばれていることさえ気が付かなかった。

「え、あ、なに?」

「何か飲むもの買ってくるけど、何がいい?」

ポケットの小銭の額を探るようにしてらんくんは聞く。

「あ、じゃぁミルクティーのあったかいやつ。」

「おっけー。コーさんはココアでいんだよね?」

彼が頷くより先に駆け出したらんくんの後姿を見て、しまった、と感じた。

公園内に自販機は見当たらないのでらんくんは通りの方まで駆けていく。当分帰って来ない。

しまった、あたしが行けばよかった。

その場には彼とあたしだけが取り残された。

 

 

 

 

小学校の頃、クラスにノリアキという子がいた。

ノリアキはいわゆる苛められっこで、しかも苛められている自覚のない子だった。

制服のなかった小学校で、ノリアキの服はほとんど毎日変わることなく、夏でも冬でも同じような格好をしていた。

シャツの裾がだらしなく飛び出して、半ズボンから伸びた棒のような足は何となく薄汚れた感じがした。ノリアキは不潔な感じがして、みんなノリアキを避けていた。

あるときあたしは当時気に入っていたハンカチを校内に落としてしまった。

キティちゃんの絵が付いたやつで赤い色をしていた。

あたしは必死になって探した。校内の隅々を探して、半ばあきらめかけた放課後、目の前にあたしが探してやまなかったものが差し出された。

赤い、キティちゃんの絵の付いたハンカチは、ノリアキに拾われていた。

「水道んとこに落ちとった。」

ノリアキは言った。

「ほれ。」

受け取れ、というように付きつけてくる。

「ほれ、お前んじゃろ?」

あたしは、手を差し出す事ができなかった。代わりに「菌が移るからいらない。」そう言ってその場から走り去った。

ノリアキが触ったものは嫌だった。

何となく汚れている感じがして、触れなかった。

菌が移る、本気でそう思っていた。

 

 

 

赤いキャップを手にした子どもはまさにあのときのあたしのような顔をしていた。

風に煽られてコーさんのかぶっていた帽子が飛んでしまったのだ。

帽子の持ち主に気が付いた彼は人差し指と親指でつまむようにして投げるように届けた。

帽子はコーさんの膝の上にぱさりと乗った。

コーさんは逃げるように立ち去った子どもに向かってもにゃもにゃと口を動かした。

言葉の感じで「ありがとう」と言っているのがわかった。

もう立ち去ったあとなのに。

その時、突然あたしを吐き気にも似た気持ちが襲った。

もの凄くどす黒いその感情はあっという間にあたしを支配した。

あたしはコーさんの膝の上の帽子を掴んだ。

そしてそれを握り締めるとありったけの力で遠くへ放った。

あたしの放ったそれはくるくると孤を描いて飛んで銀杏の木の下にぱさりと落ちた。

コーさんは一瞬何が起きたのかわからないという顔をしていた。

あたしはその顔が悲しみで歪む前に走り出した。

視界の端にらんくんが見えた。

悲しいような、泣きたいような、

あたしは自分がどうしたいのかわからなかった。ただ、どうしようもなく惨めな気分だった。

わからない。

らんくんにはわからない。

 

 

 

ひたすら走って家に着くと、かーさんが出掛けるところだった。

「お帰り、碧。」

きっと物凄い顔をしていたのだろう。かーさんが不審そうに見つめて聞いた。

「どうしたの、何かあったの?」

あたしは、

自分がひどくちいさな子どもみたいに感じた。

かーさんの声はあたしが風邪を引いたときや、テストの点が悪くて落ち込んでいたときにかけてくれたそれとおんなじだった。

やさしくて、いたわるような声。

思わず泣きそうになる。

「碧?」

何かを決意したように顔を上げて、

「何でもないよ!それよりかーさん、仕事遅刻するよ。」

かーさんはまだ何か言いたげだったけど、あたしの有無を言わせない笑顔を見て諦めたように笑った。

「じゃぁ、行ってきます。戸締りと火の元に気をつけてね。」

「うん、行ってらっしゃい。」

かーさんが完全に行ってしまったのを見届けると、あたしはアパートの扉を閉め切って声を押し殺して泣いた。

あたしが計画を実行に移すとき、かーさんは必ず泣く。

きっと、

年より老け込んでしまった顔を悲しみに歪めて、びゃぁびゃぁ泣く。

大好きなかーさんを泣かせてしまうとわかっていても、あたしは、その日を指折り数えて待っている。

この世界からあたしが消える日。

早く、

早くその日が来るといいのに。一日も早く、その日が来るといいのに。

 

 

 

泣き声が漏れないように、頭から被った布団の中で、

あたしはコーさんの濡れたような瞳を思い出していた。

冬の空のような乾いたノリアキの瞳を思い出していた。

彼らはあたしを責めていなかった。

ただ、哀しそうに。

何度もそうやって世界に裏切られてきたんだ、そういう瞳をしていた。

 

 

 

きたない、きたない、じぶんがいちばんかわいいあたし。あわのようにきえてなくなれ。

  

呪文のように呟いて、目が覚めたら少しでも、ましな気持ちになっていることを祈って、何度も何度も枕を濡らした。






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