4.

次の日、あたしは布団から出る事ができなかった。

眠たいわけでも病気なわけでもない。

文字通り出る事ができないのだ。布団から出ようとするととたんに激しい吐き気と恐怖に見舞われた。

隣の部屋で眠っているかーさんに声をかけることもできない。

怖い。怖くてたまらない。がたがたと震えが止まらない。口が渇いて脂汗が大量に噴き出した。

何日かその状態が続いて、さすがにかーさんも心配して、かーさんの勤め先の病院で診てもらった。

『パニック発作』

あたしにはそう、病名が付いた。

何らかのストレスや心理的圧迫から来るらしく、続くと『パニック障害』という本格的な病名が付くらしい。

あたしはまだ軽い方で、これがはじめてなので、お守り的に薬を出してもらった。

それでも朝になると怖くてたまらなくなる。
何とか布団からは出られるようになったが、まだ家からは出る事ができなかった。

かーさんは表面上は冷静を装っていたけど、あきらかに困惑していた。

患者さんでそういう人がいるのと実際に娘がそうなるのとでは違うらしい。

優しい言葉の奥にあたしに対する苛立ちが見え隠れしていた。

まだあたしが幼かった頃、嫌がる保育園へ何とかして行かせようとしていたときとおんなじ声をしていた。

かーさんにとってはあたしがずるをしているように見えたのかもしれない。

あたしは何もできない自分を呪った。

何のために、あたしは、

生きているんだろう。

 

 

 

 

学校に行けなくなって、布団の中でうつらうつらと惰眠を貪りながら、

何度かおんなじ夢を見た。

其処は荒れ果てた、薄暗い大地で、あたしはひとりで、

夜空を見上げていた。たくさんの星と、底なしの闇と、寄り添うように耳元を過ぎる風の音と。

そして、歌。

子守唄のようにやさしく、鎮魂歌のように哀しく、じんと染み入る、泣きたくなるくらい、透明な歌。

その歌声は、らんくんの声に似ていた。

 

 

 

 

 

コーさんを見たとき思ったんだ。

ノリアキにハンカチを手渡されたときとおんなじ。

この人たちよりはあたしは上だと。

この人たちよりは自分はしあわせだと。

しあわせの価値は自分自身が決めるのにね。

それでも誰かに言って欲しかった。

無意識に自分より不幸せな人を探していた。

図書館で昼休みを過ごしたのはそのためだった。

「あの子よりはは君は幸せだよ。」誰かにそう言って欲しかった。

目を瞑って、

呪文を唱えて、

世界じゃない、

あたし自身が変われるように。

祈りを込めて、

1、

2、

3、

あたしはあたしを好きになりたい。

 

 

 

 

 

 

一週間も家の中に閉じこもっていると浦島太郎にでもなった気分。
実際浦島太郎がどんな気持ちだったか知らないけど、今のあたしにそう遠くはないだろう。

らんくんと芋を買ったこの公園が、一週間そこらじゃ何の変化もないとわかってはいるけど、気持ちの問題。

あたしはここでコーさんを待つ。

会って、何て言おうとか、考えてないけど。それも気持ちの問題。

いつもの焼き芋屋がいたのであたしはそこで芋を買った。

食べながらコーさんを待とう、そう思っているとコーさんは現れた。

今日もひとりだった。

近寄って、声をかけなくちゃ。そう思って、足がすくんだ。

下校途中の小学生がコーさんを見つけてはやし立てる。いつかの石をぶつけていた子達だ。

声を、

声を、

かけなくちゃ。

「コーさん!」

あたしが駆け寄るとその子たちはぎょっとしたように逃げていった。

「コーさん、」

コーさんの目があたしを捉える。視線は定まっていなかったけど、きっとあたしを見ていた。

「コーさん、ごめんなさい。」

うつろな色。空中を彷徨う、瞳

「コーさん、」

あたし。

何かを言いたくて、でも言葉にならなくて、

どうしたらいいかわからなかったので、さっき買った焼き芋をはんぶんこにして差し出した。

いつからんくんがそうしたみたいに。

コーさんは「ありがとう」と声にならない言葉で言って笑った。

綺麗な笑顔だった。

あたしは泣きながらコーさんと焼き芋を食べた。

涙と、芋の味がした。

 

 

 

 

 

 

次の日からあたしは再び学校に行けるようになった。

家を出るときに少しだけ足がすくんだけど、何とか歩く事ができた。

つないだ手のひら、つながる熱の先に、らんくんがいてくれたから。

コーさんと焼き芋を食べた日の夜、何でもない風にらんくんは現れて、

「あした迎えにくるからね。」とにこにこ笑って言った。

だからいっしょに行こう?

そう、なんでもない風に笑って。

このエスパー野郎め。

らんくんはあたしの泣き所を抑えているのか。

あたしはよく泣いて、よく笑うようになった。

らんくんといると不思議とそうなった。

そしてそういう自分が嫌いではなかった。むしろ、好きかも。うん。多分、好き。

 

 

 

 

らんくんはえたいが知れないくせに、友達だけは多くて、(えたいが知れないから多いのか?)

学校の帰りや、ときには学校をサボって遊びに行った。

コーさんのうちや、ストリートミュージシャンのライブ、売れない手品師の興行。

保育園の先生の手伝い、水族館の清掃員、老人ホームの訪問と、

らんくんの友達は年齢も職業もばらばらな人たちばかりだった。

でも皆に共通して何かおんなじトーンがあった。性格も性別もばらばらで(ときにはおかまだっていたし。)

それなのに何か相通づるものが。そうらんくんに言うと、

「みんな愛があるから。」

という答えが返ってきた。

仕事に対して、人に対して、自分に対して。

「みんな愛があるんだ、あの人たち。」

「そっか。」とあたしが言うと、勝ち誇ったように「でしょ?」と言って笑った。

「あたしもなれるかな。」

あんな風に。

あたしもなれるかな。

その日は学校帰りに行った保育園のボランティアの帰りで、

子どもたちからもらった折り紙や絵や拾った木の実なんかであたしたちのポケットはいっぱいだった。

冬が近くて手袋をはめた手のひらから伝わるらんくんの熱があたたかかった。

その日。

らんくんの友達のゆうこ先生はぎゃぁぎゃぁ騒ぐ子どもたちに囲まれて「もー。」とか言いつつもすごく楽しそうだった。

楽しそうでしあわせな笑顔。

その綺麗な笑顔を思い出して、あんな風になりたいと思った。

「あんな風にあたしもなれるかな。」

つないだ手のひらに力を込めてもう一度そう言うと、らんくんはぎゅうっと包むように握り返して、

「なれるさ!」

「ミドリならなれるさ!」

何度も何度も、繰り返して、

「大丈夫、ミドリなら大丈夫。」

そう言って冬空の蒲公英みたいに笑った。

あたしは、やっぱり泣いてしまった。

何かに憧れる、とか。

あたしもそうなりたい、とか。

そんな風にまた思えるなんて思わなかった。

世界を好きだと思う日が来るなんて思わなかった。

あたしを好きだと思える日が来るなんて思わなかった。

愛なんて言葉信じれる日が来るなんて、

思わなかったんだよ。

らんくん。

君に出会うまでそんなこと思わなかったよ。

初冬の帰り道、びゃぁびゃぁ子どもみたいに泣くあたしをらんくんはやさしく抱きしめてくれた。

そうして頭のてっぺんと、額に、王子様みたいにキスをした。

「王子様みたいだよ。」

そう言うと、

「この星ではこれが愛のしるしでしょう!」

と少しむきになって言っていた。

あははと笑ってらんくんの背中に手をまわした。

「あったかいね。」

「うん、あったかい。」

らんくんの胸の中は落ち葉のように乾いた草のにおいがした。

「ミドリ、」

うん?と顔を上げるとらんくんはひどくまじめな顔をして言った。

「ミドリ、まだ自分を消滅させたい?」

「え?」

「まだそう思ってる?」

まるで母親を待つ子どものように心細い顔をして、らんくんはあたしの答えを待っていた。

「らんくん、」

知ってたの?

目だけでそう聞くと、「ごめんね。気付いてた。」らんくんはそう言った。

 

 

 

 

いつの間にかあたしたちの指定席のようになってしまった公園のいつものベンチ。冬へと衣替えした星空の下。

らんくんは黙ってあたしの話を聞いてくれた。学校でのこと、コーさんのこと、ノリアキのこと。

あたしは全て吐き出すように話した。

らんくんは、静かな瞳で、哀しいような、懐かしいような綺麗な瞳をしていた。

あ、どこかで見たことある、どこだっけ。そう考えてるとらんくんは口を開いた。

「ミドリ。世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。」

ぽかんとしているあたしに向かってらんくんはそう言ってにやっと笑った。

「池澤夏樹、『スティル・ライフ』の書き出しんとこ。ぱくってみました。」

「は〜、何よ、びっくりした。」

「なはは。びっくりした?」

いたずらっ子みたいに嬉しそうならんくん。ちきしょう、不覚。

「でも、そう思うよ。」

「世界に受け入れられようと努力する必要ないんだ、だって世界は俺たちを受け入れる容器じゃないんだもん。」

本って勉強になるなぁ。感心するようにそう言って、「ね?」とあたしに相槌を求めた。

「ねぇらんくん。」

あたしは思い切ってずっと思っていたことを切り出した。

「どうしてそんなにあたしに優しくしてくれるの?何であたしのことがそんなにわかるの?」

ずっと、はじめて会ったときから不思議だった。らんくんはいつだってあたしの気持ちを汲み取ってしまう。

まるで、ほんとうにエスパーのように。

「声が聞こえたから。」

「え?」

「俺を呼ぶ、強い強い、声がしたんだ。」

「その声はすごくたよりない。ちいさい。でも強い。自分を消したいと思っている。」

らんくんの声が冬の空気に共鳴するように響く。

「あたしは何のために生きているの?そんな声。」

遠く離れた俺のところまで、その声は届いた。

嘘のような冗談のような話。でも、らんくんの瞳は真剣だった。

そして、どきりとするほど澄んでいて、あたしの胸はざわざわと鳴っていた。

らんくんの瞳は、頭上に広がるこの夜空のように果てしなく深かった。

 

 

 

 



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