とこしえまで とこしえまで 忘れじアニーローリー わがいのちよ 第4話エデン そらを感じるとき、気配よりも何よりも先に、 周囲に漂う甘い香りで気がつく。 キャラメル、キャンディー、チョコレイト、 そらのポケットに詰め込まれた、山ほどのお菓子。 「ジャンもたべるー?おいしーよ。」 なんて言いながら、いくつものお菓子をポケットから取り出す。 おおよそ、尋常でない数を、其の小さなポケットに詰めて、 そらは歩く。 だから、気配よりも何よりも先に其の甘い香りが鼻につく、という訳。 今日もまた、僕らは例によって市場へ買出し中だ。 真綿のような雲が浮かぶ晴れた空。 風に乗って漂う金木犀の甘やかな香り。 隣を歩くそらのチョコレイトの香り。 「ジャンー、チョコたべるー?」 ・・・いらないよ。 「あ、そー?」 のん気なそらははなうた交じりでてくてく歩く。 あーしーたつーゆおーく のーのーしじーまーにー あ、「アニーローリー」だ。 いーとーしアーニローリー きみとーかたーりぬー 僕は、 この歌を聴くと思い出す人がいる。 とーこーしえーまでー こーこーろかーえじー ちかいーしアーニローリー わーがーいのーちよー 全部うたい終わってそらは笑って言う。 「ママがすきだったねー。このうた。」 うん。 「とーこーしえーまでー、のとこ、なきそーになるねー」 うん。 「ジャン、しってたー?このうた、ボスもすきなんだよ。」 うん、知っていた。 「ボス」がよく口笛で吹いていた。 だから、「ママ」も好きだったんだよ。 逆なんだよ、そら。 「そらもこのうたすきだよ。」 このうたをきくとね、ママとボスと、 みんないっしょだたころをおもいだすね、そうそらは呟いて、 市場へ向かう道の真ん中で僕をぎゅうっと抱きしめた。 「アニーローリー」の調は何故か秋の空によく似合って、 僕らは再び大きな声で 歌って歩いた。 そらを思うときにその眼差しやいでたちよりも先に、 お菓子の甘い匂いが浮かぶように、 「ママ」を思うとき真っ先に浮かぶのが、 「アニーローリー」と「ママ」がいつも吸っていた煙草の匂いだ。 「ママ」はきつい煙草を好んで吸って、 強いお酒をがぶがぶ飲んで、 くっきりと笑う、そんな人だった。 いつも夜、眠る前にお話を聞かせてくれていた。 「白雪姫」や「赤頭巾ちゃん」、 太宰治から芥川龍之介、ダニエル・キイスまで、 僕らはベットの中で「ママ」に教わった。 「こーゆーのはそらには難しいかもしんないけどさ、 アタシやソラは好きなんだよ、きっと。」 そう言って難しい歴史や宗教の本もたまに読んでくれた。 そらはどうか知らないけど、 僕は、本の内容よりも、 其れを読んでくれる「ママ」の声を聞いていた。 「お伽話みたいにさ、 みんなめでたしめでたしになっちゃえばいいのにな。」 「ママ」はそう言って僕を撫でた。 細く、長い指で。 煙草とアルコールと、ほんの少し、チョコの香りのする指で。 クロとそらは日がたつごとに仲良くなっていった。 昨日よりも今日、今日よりも明日。 日常を重ねる毎に、あたたかに笑うクロを見て、 ハツマさんはうれしそうだった。 「やっと人間みてぇに笑うようになったな。」 時折そんな風に呟いて、同意を求めるように僕を見た。 クロの過去に何があったかなんて知らない。 この前話していたリリという人が誰なのかもわからない。 でも、大切なのは今だから。 今、クロは優しく笑っていて、 其れだけで充分だと思う。 それに、 表向き常識ある、誠実そうな人が 本当は魔物の姿をしていたりすることを僕は知っている。 人の評価は当てにならない。 だから僕は、自分を信じる。 自分の目で見た、クロを信じてる。
「ジャン、おやすみだよ!」 一日の仕事を終えて、部屋に帰ってくるなり大きな声でそらが言う。 一足先に休んでいた僕としては睡眠の邪魔をされて迷惑なことこの上ない。 そらはそんなことには1ミリも気が付かない様子で話しを続ける。 「ハツマさんがね、いちにちだけおみせをかわってくれるんだって! クロもたまにはやすみなさい、って。 それでね、せっかくだからクロがうみにでもいこうかって! ジャン、きいてる?うみだよ!うみ!!」 やったぁー!そらが絶叫する。 ハツマさんめ、はかったな。 目の前でにやにや笑うハツマさんの顔がちらつきそうだ。 当の2人はそんな思惑を知って知らずか。 それでも、 僕だって海は初めてだ。胸が高鳴る。 多分、ソラにとっても初めての海だった。 その日は生憎の曇り空だった。 それでもそらはうれしいらしく、 朝早くから起きてクロと2人でその日の弁当をこしらえていた。 バスケットに、卵とハムのサンドイッチ、林檎と洋梨のコンポート、 昨日の残りのローストビーフも持っていこう。 ミルクにコーヒーにソーダ水。 それぞれの飲み物も忘れずに。 クリーム色の小さなバンに乗り込む僕らを、 ハツマさんがにやにやしながら見送りに来る。 「クロさんよ、俺が代わってやるのは今日一日だけだからな? ちゃんと今日中に戻って来いよ。」 そう言ってクロの背中をばんと押した。 「うっせーな。エロおやじ。」 其の一言でクロはハツマさんから大きなげんこつを餞別にもらい、 どんよりとした雲の下、僕らは海に向けて出発した。 平日の高速道路は寂しいくらいに空いていて、 「まぁ、こんな天気だし、シーズンオフだし。 こんな日に海に行く物好きも俺たちくらいかな。」 と、クロも苦笑するほどだった。 海には一時間ほどで着いた。 何てことはない、大きな水溜りだ。 鈍い光を放つ空の下、どんよりと暗い、水溜り。 生きているかのように寄せては返す営み。 そらは本当にうれしそうに、 何度も僕らの名前を呼んで、 笑った。 そんなそらを眩しそうに見つめる、クロ。 僕の中でいつかの記憶とシンクロする。 クロの瞳。 「もうあいつの好きにはさせたくないよ。」 いつものようにベットの中でお話を聞かせてくれていた「ママ」が そらが寝たのを見届けると僕に向かって言った。 初めて聞く、「ママ」の声。 硬くて、重い声。 「アタシはあいつを殺すつもり。」 「あいつを殺して、自由を手に入れる。」 見上げた「ママ」の瞳の中に微かに揺らぐ光があるのを僕は見つけて、 でも、何も言えず、 僕の声が届くのはそらだけだし、 言えたとしても「ママ」の決意は変わらなかっただろう。 「そして、ソラと、あんたたちと、ボスと、 みんなが幸せに暮らせるとこに行こう。」 行こうね。 最後は念を押すように、強く、 「ママ」は言った。 思い描いてみる。 其処は理想郷。 楽園。 ネヴァーランド。 其処は、 誰も怒ったりしないところ、 僕たちがいても誰も泣いたり、 死んだりしないところ。 そんなところに行きたかった。 海で思い切り遊んで (遊ぶといってもこの季節。たかが知れているんだけど、) 2人の力作のお弁当を食べるとそらは眠ってしまった。 低い空。うねる海。 隣には、クロ。 僕らは、 この世界の端っこにようやく引っかかっているような気がした。 昨日の夜の月のように。 歪んだ幸福。 いつ失われても可笑しくない時間。 楽園なんて何処にもない。 味方なんて何処にもいない。 明日には元に戻っているかのような儚いひと時。 「ジャン、」 おもむろにクロが口を開いた。 僕を抱き寄せる、大きな手。 「ママ」と同じ煙草の香り。 泣きそうになるほど懐かしい、失われた香り。 「あんたたちがいてくれてよかった。」 ? 「今日、この日にひとりじゃなくてよかった。」 擦れたような声で言い、僕の中に顔を埋める、クロ。 2年前の今日、 この世でいちばん大切だったものを失くした日。 ひとりじゃなくてよかった。 最後の呟きはきっと心の声。 そら以外に聞こえるなんて思わなかった。 だけど其の時僕は、それが不思議なことでも何でもなく、 只、当たり前のこととして、 事実として 静かに受け止めた。 僕らが此処に居る意味。 クロとそらが出会った理由。 運命なんて信じてないけど、 神様はいつも裏切ってばかりだけど、 お互いがひとりきりじゃないことを知るために此処に居るのなら、 少しは信じられそうだった。 「はーよくねたー」 うんと伸びをしてそらが目を覚ます。 ほんとにのん気だな、この人は。 「クロ。」 覗き込むようにしてそらは、 「ありがとう。」 そう、言った。 海に連れて来てくれて? 此処に置いてくれて? きっと、その全部。 そらは全てを含んだ声でもう一度、 「ありがとう。」 と言った。 クロはそんなそらをぎゅうっと引き寄せて、 優しく抱いた。 唇を栗色の髪に付けて、まるでちいさな子どもにするような、 キス。 そして、今度は強く、そらを抱きしめた。 其の時、すごい事が起こった。 予期していなかった。僕ですら。 「供養しよう。」 突然、そう言って、そらが体を離した。 でもそれは、そらではなく。 驚いているクロを尻目に、 海に向かって歌いだした。 「アニーローリー」 「ママ」でもなく、そらでもない、 多分、クロは初めて見る、 其れは ソラだった。 歌が終わると、 「知ってたのかよ?」 びっくりしたままの顔でクロが言った。 「うんー?なにをー?」 ソラは「そら」に戻ってた。 多分、知っていたのはソラ。 クロの孤独に気が付いていた、ソラ。 そうして、初めて姿を見せたソラ。 あどけない表情に溜息をついて、 「風が出てきたな。帰ろうか。」 クロはそらの手を取った。 多分、クロは気が付かなかった。 そらの中にいるソラのことを。 そうだ。 そらの中にはソラを含めて2人の人格が存在する。 正確にはソラの中にそらがいる。 そして、あともうひとり。 すでに見慣れた「三日月亭」の扉を開けると、 カップを拭いているハツマさんの姿があった。 「おぅ、お帰り。今日は帰ってこないかと思ったぜ。」 ハツマさんの軽口を受け流し、クロはカウンターに入る。 「夜からは交代。危なっかしくて見てらんねー。固定客も減るし。」 そう切り返して笑った。 ? 変だ。 何か、変だ。 店の中はいつも通り。 何一つ変わったところはない。 でも、 微かに感じる違和感。 デミグラスソースのかおりに巧妙にかき消されているけれど、 其れに混じって感じる、 煙草の香り。 きつく、苦い其の香りに僕より先に気が付いたのは、 そらだった。 途端にがたがたと震えだし、その場に座り込む。 「そら?」 不思議そうにクロが言い、駆け寄る。 「どうした?そら。」 そらは答えられず、震えたまま首を激しく振った。 尋常でないそらの雰囲気を察してクロはそらを抱く。 あいつだ。 店に漂う微かな違和感。 ソースの香りに隠された煙草の匂い。 あいつが、 とうとう此処までやって来たんだ。
誰も怒らない、 誰も泣かない、 誰も死なない、 そんな場所を探してた。 例えば其れは理想郷。 楽園。 ネヴァーランド。 だけど僕らは知っていた。 楽園なんて、ないことを。 世界はいつも残酷で、 運命は卑しく、強大だ。 それでも僕らは探してた。 僕らが居てもいい場所を。 辿り着いた其の場所は、 最果ての小さなカフェ。 初めて存在を許された場所。 ただ其れだけで、 楽園というにふさわしかった。
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