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次の日、彼女は来なかった。
いつも4時間目の終了を告げるチャイムがなると同時にやってくる彼女の足音が、
其の日に限って聞こえなくて、
「すこしでもせんせいと長くいたいから。」
そう言って息を切らせてやって来ていたのに。
一応2人分のコーヒーを淹れておく。
立ち込める香り。広く見える美術準備室。味気ない購買のパン。冷めた赤いマグの中身。
俺は、
こころの何処かで、彼女が来ないはずないとたかをくくっていた。
約束なんてしていないのに。
廊下の足音に耳を済ませて、其れがよく知っているものかどうか期待して。
俺は、
待っていた。
きっと、彼女を、待っていた。
 
「せんせい、」
控えめなノックの音がして、扉の向こうから彼女の声が聞こえたのは其の日の放課後だった。
ひどくほっとしつつも
「何?」
一応冷たく言い放つ。
「今放課後だけど?」
「うん。」
「今日の営業は終了しております。」
・・・
暫く沈黙が続く。苛め過ぎたかな。大体合鍵持ってるのに何で入ってこないんだ。
「?冬野?」
・・・約束、やぶってごめんなさい。入ってもいい?」
彼女の言う約束は、きっと俺の出した条件。
それでもそんな声は反則だろう。拒めなくなってしまった。
立ち上がって音がしないように気を付けてドアを開ける。
「いいよ。」
周りに誰もいないのを確かめて彼女を入れる。俺の顔を見て彼女はほっとしたように笑った。
悪いことをしているみたいだ。
正直こんなに緊張するとは思わなかった。
そうだ、俺は緊張していた。
笑ってしまう。たかが17歳のガキを意識しているんだ、とうに20を過ぎた俺が。
いつものようにコーヒーを淹れる俺の後にくっついて、
「せんせい、」
ひどく頼りない声で、彼女は俺を呼んだ。
「どうした?」
平静を装っていてけれど、内心ひどく動揺して、何とか大人でいようと必死だった。
「きのう、ごめんね?」
いいよ、と言うのも違う気がして黙っていた。大体謝るのは俺のほうだろう。
「あたしねぇ、欲張っちゃったかも。せんせいがやさしいから、
どんどん欲張りになってくの。」
例によって彼女の瞳は俺を捉えて離さない。
「でも、今のままでじゅうぶんだから、」
だから、ごめんね?と彼女は続けた。
いったいこの子は俺の何処をそんなに好きなんだろう。
俺は、何処にでもいるありふれた高校教師で、
君に何の夢も見せてあげられない。
未来を変えるほどの気の聞いた言葉も言えない。
それなのに、君は。
それでも俺を好きなのか。
まるで答えの代わりのようににっこり微笑む彼女を見て、微かに胸が痛むのを感じた。
未だ、何も知らない。
何も知る必要のない、
守られている彼女。
其の姿はかつての俺で。
とうに失われてしまった筈の、過去の俺で。
若くて、無知で、夢ばかり見ていた頃の、俺の姿で。
だからこんなに哀しいのか。
「ほら、気を付けろよ。」
手渡すときに触れる指と指。つながる熱。
このままこういうことが続くと俺は、おかしくなってしまう。
茨道は嫌なんだ。
今の生活に不満はないんだ。
だけど、
彼女を見ているとおかしくなってくる。
何が正しいのか、
自分がどうしたいのか、
見失ってしまいそうだ。
 
「ねぇ、せんせい、」
例のごとく両手で抱えるようにしてカップを持ち、
見上げるようにして俺を呼ぶ。
「何だ?」
其の時俺は、ひどく急な階段を下りているような気分で、
踏み外さないように、
踏み外さないように、
自分に言い聞かせていた。
しいて言えば其れは人生のレール。
踏み外さないように、
踏み外さないように、
気を付けて。
「あたしね、今日ずーーーーーーーっと、」
そこで息を吸い込んで、
「さみしかった。」
ぽつりと。
「せんせい怒らしちゃったかも、もう口きいて貰えないかも、って」
「こわかった。」
こわかったよ、と聞こえないくらい小さな声で呟いて、
ほら。
また俺を見据える其の瞳。
「うん。」
そう答えるのが精一杯で、
俺はコーヒーを流し込んで理性を保つ。
踏み外さないように。
「うん。」
俺も、怖かった。
言わなかった言葉。
 
怖かったよ、君が離れていきそうで。
そうだ、
君は未だ若く、こんなことよくある話で、
本気になってしまったら
ふたりとも傷つく。
だから、知らんぷりをし続けよう。
優しく、あいまいなままで。
其の方がきっと。
 
 
俺たちは放課後の美術準備室でたわいもないことを喋り続けた。
今となっては笑ってしまうくらいくだらないこと。
石頭の古典の教師の悪口。
学生食堂の味の不味さ。
そんなこと。
君はよく笑って、コーヒーを何倍もおかわりをして、
「胃悪くするぞ、」
と俺が注意すると、
「せんせいのコーヒーは特別。愛があるからね。」
と言った。
「入れた覚えはない。」
「けち。ちょっとくらい愛してよ。」
「誰がこんなガキ。」
「どうせガキですよ。」
君はまた拗ねる。膨れた横顔。ばかだなぁ。
嘘だよ。
微かに入れたかもしれないんだ。
其れは愛とは呼べない。
ちいさなちいさな、例えて言うなら
雪のひとひらのような。
其れはほんとに愛とはいえない。
幼すぎて、
未熟な、
俺と彼女の。
涙を流さないですむならそれでいいんだ。
傷つくのは怖かった。
いっそ未熟なままで、時が過ぎればいい。
綺麗なままで忘れていきたい。
俺と彼女のおよそ恋とは言えない、
ままごとさながらの
出来事。

 

 

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