4.


「ねぇねぇ、知ってた?うさぎってさみしいとほんとに死んじゃうんだって。」
日曜日の昼下がり、スリップに薄いカーディガンを羽織った格好のままで恋人が言う。
「はぁ?」
「や、だからね、あたしの友達で飼ってる子がいたの、うさぎ。」
慣れた手つきで戸棚からコーヒー用のカップを出す。
「週末と月曜日休みとって23日の小旅行から帰ってきてみたら、」
俺のは濃いエスプレッソ。彼女は薄めのアメリカン。
「ケージの中でほんとうに死んじゃってたんだって。」
・・・へぇ。」
俺は恋人からカップを受け取り、ベットの中で其れを啜る。
「あんまり構ってくれないとあたしもうさぎみたいになっちゃうからね。」
拗ねたように言い、其の後で笑う。俺の恋人はほんとうに綺麗な顔で笑う。
「何言ってんだか。」
「本気よう、最近珍しく仕事まじめにしててつまんない。ココロココニアラズって顔してるし。」
ココロココニアラズ。
「先生、」
最後は牽制するように、
「ちゃんと構ってね。」
彼女はそう言った。
「先生、って言うなよ。」
言いながら俺は、彼女の「先生」の響きが冬野の其れと違うことを感じていた。
「せんせい。」
冬野の、其れはひどくアンバランスで、頼りない。
そして、どこか空虚に響く。
 
俺が言うのもなんだが恋人はいい女だと思う。美人で、仕事もできる。


我侭と甘え、依存のバランスもわきまえている。俺には出来すぎなぐらいだ。実際、彼女と付き合えることになったときは夢かと思った。
同じ学科の仲間で彼女に思いを寄せていたやつは山ほどいたし、その中から俺みたいなやつの思いにこたえるなんて思いもしなかったからだ。
「いいのかよ、俺で。」
そう聞くと彼女は、
「うん。あなたの絵の感じや物事の捉え方がとても好きだから。」
と言って微笑んでくれた。
俺の頼りなく淋しげな感じの水彩画が好きだと言う彼女は、強く躍動感のある油絵をよく描いた。
卒業後、彼女がデザインの会社に就職し、俺が美術教師になった今でも付き合いは続いている。
お互い好きな絵はもう描けなくなってしまったけど、
夢と理想に程よく折り合いを付けて。
俺と彼女ももう5年目になろうとしていた。
 









こういうことは気を付けなければ、と思っていた。
慎重に、よくあることだけに、
慎重に。
俺は其の日、学長に呼び出しを食らっていた。
理由。
2−B、冬野しほことの関係について。
「確かに彼女はここのところよく美術室に来ていますが、
学長がお考えのようなやましいことは一切ありません。」
俺はそう答えた。
教師と生徒、よくある話だ。
他の生徒に与える影響、
そんなものあるか。大体高校生はそんなに子供じゃない。
学校として責任の負いかねる事態になっては困る。
其れは俺と彼女がセックスでもしたら困る、ということなのか。
「そういう関係にはなりません。」
「冬野は一生徒です。」
タカンナジキナノデキヲツケタマエ。
キミガソウオモッテイルイジョウニカノジョハキミヲオモッテイルカモシレナイ。
学長、
仰るとおりですよ。
けれど其れは言わずに、
「以後気をつけます。」
一礼。
それで終了、無罪放免。
でも俺の心は何故かすっきりしなかった。
確かに学長の言う通りなんだ。
このままでは俺の生活は脅かされてしまう。
冬野のためにも、
俺たちは距離を取るべきかもしれない。
そう思って、
昼休み。
俺は久々に恋人を呼び出して、
近くの店で昼食を取ることにした。
「めずらしいのね。」
ウールのコートの下にはカシミアのセーター。
羽織っていたピンクのショールを背もたれにかけつつそんなことを言う、
俺の恋人。
「あんまり昼に会うなんてことはなかったからな。」
俺は煙草に火を点ける。
吐き出される煙。
「何かあったの?」
・・・別に、たまには外で会うのも悪くないだろう?」
そこでウェイターがメニューを運んできたので会話が途切れる。
彼女はペンネアラビアータを、
俺はチキンのグリルを注文する。
「でもやっぱり何か変よ。」
「構ってくれって言ってたじゃないか。」
さみしいと死んでしまうんだろう、
うさぎ。
独り言のように言って、其処で、思い出したのはなぜか
彼女。
冬野だった。
さみしいと、
俺に一日会えなかっただけでさみしいと言っていた、
彼女。
またあの透明な瞳で俺を見るんだろうか。
俺が其の瞳に溺れそうになることも知らずに。
無知で、
いまだ夢から覚めない、
幼い、
そんな彼女。
白い、小さなうさぎのような。
・・・浮気でもしてるの?」
疑わしそうに、半ば面白がるように言う彼女を制して、
「結婚、しようか。」
俺はそう言っていた。

 














 

しろい、小さな膝。
制服からすらりと伸びた長い足。
冷たそうな君のからだ。
紅い唇。
思い出さないように目を閉じて。
其れなのに瞼を落とすと浮かんでくる其の残像の数々を、
何度も浮かんでくる君の姿を、
抱きしめて、
キスして、
貪るように抱いて、
想像の中で、
何度も俺は君を犯した。
これは恋だったんだろうか。

















 
「せんせい、」
次の日朝いちで彼女に呼び止められた時、
正直言って逃げ出したかった。
「授業、始まるよ。」
早く、
「せんせい、何できのう、居なかったの?」
早く、
「お昼やすみ、待ってたんだよ。」
早く、
「約束なんてしてないだろう?」
早く、授業開始の鐘が鳴ればいいのに。
「其れに俺にだっていろいろあるんだ。毎日生徒と遊んでなんかいられない。」
君を傷つけてしまう前に。
・・・せんせい、」
「冬野、」
君を、
「もう美術準備室に来るのはよしなさい。」





泣かせてしまう前に。






そこで鐘が鳴り、俺は君に背を向けて、歩き出す。
君の涙を見ないですむように。
 







俺は、大人だから。
君より少し、大人だから。
先に行くのはしょうがない。
しょうがないことなんだ。
 









「結婚のこと、少し考えさせて欲しい。」
恋人は其の晩そう告げた。
いつものように抱き合った後で。
いい返事を期待していた俺としては当然肩透かしを食らった。
「どうして?」
理由を尋ねるると彼女はひどく哀しそうな顔をした。
「だって、」
「だってあなた変よ。あたしを抱くとき誰のこと考えてたの?」
そう言ってほんとうに苦しそうに泣いた。
俺は5年も付き合っていてこんな風に彼女が泣くところをはじめてみた気がする。
「誰って・・・
抱きしめようとすると手を払われた。
そして小さな肩を震わせて泣いた、俺の恋人。
哀しそうに、
ほんとうに哀しそうに。
泣かせたのは、俺。
好きな女ひとりも幸せにすることのできない、
無力な俺。
ごめん。
ごめんな。
無意識のうちに謝っていた俺に彼女は、
「あやまらないで、かなしくなるから。」
と言い、小さな肩をさらに大きく震わせて。
あぁ、
俺たちはみんなうさぎなのかもしれない。
ひとりじゃ生きて行けない。
さみしくて、
さみしくて、
何だか君に会いたいよ。
せんせい、
君の声が聞こえた気がした。

 






back

next