5.



雪が降っていた。
今年最初となる雪の夜の中で、
俺たちは誰よりも孤独で、
誰よりも自由だった。
ただ其の一夜。
 








 
俺は何をしている?
何がしたい?
求めているものは、
何?
空虚だった。
頭もがんがんして、
煙草も不味く感じられた。
恋人を泣かせ、
そして、自分が何をしているのかも分からず、
誰を求めているのかも、
分からず、
俺は何をしている?
恋人が去った部屋の中で、
ひとり。
暗い部屋の中で、
思い出すのは、
「せんせい、」
俺を呼ぶ、
透明な瞳。
これは恋じゃない。
これは恋じゃない。
これは恋じゃない筈なんだ。
「冬野、」
名を呼ぶ。
なぜかどうしても、君に会いたい。
君に会いたかった。
会って、
何を?
俺はおかしいのかもしれない。
卑怯な男だと罵ってもいい。
君との未来を描くことはできないくせに。
君の事をこんなにも、
呼んでいる。
俺がいちばん分からない。
何がしたいのか分からない。





 
翌日は雪の降り出しそうな冷たい空。
廊下ですれ違った君は俺と目を合わすことなく、
静かに横を通り過ぎた。
これでいいんだ。
これでよかったんだ。
そう、
自分に言い聞かせて。
いつか消える想いなら、
やさしかった記憶だけを残して、
そして、
忘れて。
俺を、忘れて。
好きだったことも、
好きだった自分も、
忘れてしまえばいい。
其の方が、
傷つかなくて済むはずなんだ。
 




それなのに。







 
ワスレナイデ。







 
其れはふたりのココロ。
シンクロした。












 
「は?冬野がですか?」
俺が聞いた職員室での話は耳を疑うものだった。
『冬野しほこが売春をしている』
「先生は聞いた事ありませんでした?」
石頭の古典教師が言う。
・・・いえ。」
「や、あくまでも噂ですけどね。生徒たちが言っていることだし。」
・・・そうですね。」
其れしか言えず。
「まぁ、冬野のうちはあれですから。」
「親が親なら子も何とかってね。」
俺は、
「親?」
「先生知りませんでした?」
ただ、
「冬野は母親と彼女の妹の夫、
つまり冬野の叔父に当たる人との子どもなんですよ。」
 
 
「おばーちゃんと、おじーちゃんと3人と一匹暮らし。」
嘘を、
付かせた。
君の透明な瞳だけを浮かべて、
「まぁ、先生も深入りせんことですよ、」
泣きそうな、
「あの子はあれですから。母親譲りでうまいですから。」





君の、
透明な瞳の理由。






「冬野!」
いることを願って開けた扉の向こうは
がらんとした空間で、
其の寂しく空いた空間を眺めて、
自分がひどくちっぽけな人間に思えた。
彼女の姿を探して、
求めて、
はじめていとおしいと感じた、
其の日。
日が沈む頃、
曇った空からこの冬初めての雪が降った。
 









 
俺は何をしているのだろう。
雪の中、
このくそ寒い中、
繁華街の風俗店を片っ端から回って、
恋人も放って。
あぁ、明日提出の書類もやっていない。
ただ、
莫迦みたいに
君を探して。
これは偽善なのか。
ただの自己満足か。
君への駆り立てられるような思いは、
つき続けた嘘へのせめてもの罪滅ぼしなのか。
「冬野、」
黒いスリップドレスに身を包んだ、白い、雪のように白い素肌。
透明な瞳を隠して、
死んだ魚のような目をした君。
ようやく見つけた。
・・・せんせい。」
逃げようとする腕を掴んで、
「離して!」
抱えるようにして、
ち、黒服のニィチャンたちが追ってきやがった。
「っ、せんせい!」
車に放り込んで、
逃げた。
雪の降る夜。
 







 
助手席の君はひとしきり暴れて、
喚いて(こんなに激しい子だとは思わなかった)
それから不気味なほど静かになった。
「?冬野?」
ハンドルを切りながら俺は横目で彼女を見た。
・・・・・・・った。」
赤信号で停車する。テールランプがぼんやりとにじんで伸びる。
「冬野?」
「せんせいには知られたくなかった!」
吐き棄てるように言い、フロントガラスを睨む。
俺の黒のダウンから伸びた彼女の膝があまりにも小さくて
思わず息を呑む。
何を言っていいか分からず、俺も前を向く。
「ごめんな。」
出た言葉が其れなのだから我ながら情けない。
青になり、車を発進させる。雪のためか見通しが悪い。
しばらく運転に専念していると横から小さな嗚咽が聞こえてきた。
彼女は静かに泣いていた。
綺麗な結晶のような涙が頬を伝う。
濡れた小さな紅い唇。
俺は車を車道の隅に寄せ、
目隠しをするように彼女の涙を拭ってから
やさしく口付けた。
・・・せんせい、」
何も言わなくていいから。
其れなのに君は言葉を続けて、
「もし、」
「明日で世界が終わるとしたら、」
なにをしたい?
あぁ、俺の知っている其の瞳。
 






溺れてもいいか。
 








貪るように深く口付けて、
回答。
「君を、抱いて眠りたい。」





冬野。






其の瞬間、俺たちは堕ちた。







よくある話。
よくある出来事。
安い、何処にでもあるようなモーテル。
閉ざされた雪の夜。
「せんせい、あたしよごれてるよ?」
そう言う君をやさしく包んで。
大丈夫。
汚れてなんかないから。
大丈夫。
君は綺麗。
耳元で囁くように言って、
君は泣いた。
泣いて、
何度も、
俺を求めた。
お互いこれが最初で最後だと知っていた。
なぜか。
かなしくはなかった。
ただ、
しあわせだった。
君は全て知っていたのかな。
俺が、弱くて狡い、
悲しい大人だと。
知っていて、
それでも好きと言って、側にいた。
何度も、
何度も、
俺を呼んで、
「これが最後だから、明日になったら消えちゃう夢でいいから、」
だから今この瞬間だけは、
 



あたしのことだけをあいして。
 




やっぱり全て知っていた。
知っていて、
それでも。
白くて小さな君の肌に身を寄せて、
僅かな眠りをさまよう君の瞼に口付けて、
そんなことを思った。
深い、
深い、
雪の夜。
俺と君の、
恋のような日々の、行き着いた先。
君は俺の心のに雪のように降って、
降って、
降り積もる。
いつまでも消えないように。
忘れてしまわぬように。
君と交わる其の瞬間に、
俺はすべてを見た気がしたんだ。
ほんとうだよ。
 
其の日の雪は根雪となって、
そして季節は冬を迎えた。





back

next