赤い月
そう言えば今日の月は赤かった。
風呂上りにミネラルウォターを飲みながら、俺はそんなことを思った。
キッチンからぎりぎりに切り取られた夜空を見て思い出したのだ。
「花さん、」
「うん?」
「今日、月が赤い。」
「・・・そう?」
花さんはテレビの光だけでペディキュアを塗っている。青白い光。テレビはスポーツニュースが流れている。ハイテンションなキャスターの声。
ペディキュアは艶やかな桜色だ、きっと。
「環くんは何を見て自分は大人だと思う?」
「はぁ?」
「今読んでいる小説の主人公がね、きれいにマニキュアの塗られた爪を見て、自分は大人だって思うんだって。」
「それでか。」
ようやく、花さんの行動が理解できた。
「環くんはどんなとき自分を大人だと思う?」
膝を抱える花さんの後姿はちいさくて、俺は途方もなく哀しくなる。なぜだろう。
ひとり、取り残されたこどものような気持ちになった。
「運転免許を取ったときとか、酒を飲んでるときとか?」
聞くような形になってしまったのは自信がなかったからだ。
ひとは、いつの間に大人になるのだろう。
「花さんは?」
答えを言う前に、「ミネラルウォーターひとくち頂戴。」と、ぺこりと薄っぺらい音のするペットボトルを俺から取り上げる。かたちの良い喉。
「ありきたりだけど、」
無言で返す、透明な瓶。
「ありきたりだけど、嫌いな人の前でにこにこ笑えるようになったとき、かなぁ。」
「つまり嘘が上手に付けるようになったときってこと?」
俺が言うと花さんはずいぶん心外、という顔をした。
「環くん、」
「うん?」
「こどもが嘘を付かないと思っているの?」
「・・・」
「環くんは純粋なのね。」
どう答えたらいいのかわからなくなって、俺は曖昧に笑った。こういうときを、いつから笑ってやり過ごせるようになったんだろう。
ひとりぼっちで、取り残されたこどもはそれでもしなやかな強さで、生きていく道を見つける。
自分のやり方で。
「とりあえず、」
「とりあえず月を見てみる?」
花さんは少し考えて、
「見る。」
とにっこり笑った。赤い月は空のはしっこに引っかかっている。
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